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こいつらは誰なのか?

全くの初見の小説や漫画を読むときに、まず最初に立ちはだかる壁は、「こいつらが誰なのかわからない」ということだ。特に小説は絵がないので、本当に誰なのかわからない。性別や、年齢すらわからないことがある。もちろん、読んでいくうちにだんだんわかってくるのだが、冒頭の10ページぐらいは何がなんだかわからないので、50ページぐらい読んでからまた最初に戻ったりする。要するに、誰なのかわからないので、内容がほとんど頭に入っていないのだ。
 
シリーズものだと、この点は解消される。シリーズの一作目を読んでいれば、主人公はとりあえずそいつだからスッと入っていくことができる。漫画でも、巻を重ねるごとにキャラクターに愛着がわいていくから、「物語に入り込めない」ということは減ってくる。それが面白いかどうかはまた別の問題だが。
 
だから、「ウケる」物語をつくるためには、とりあえず早めにそれが「誰なのか」をはっきりさせないと、導入時点でつまづくことになる。もちろんなんだかんだ常軌を逸した主人公でも構わないのだが、「どういうやつなのか」は冒頭の段階でしっかりと示して、かつ受け入れられる必要がある。

そうやって考えていくと、最終的には「創造性」ってなんなんだろうな、という疑問に行き着く。「オリジナリティ」とか「個性」とかって、本当に必要なものなんだろうか?
 
昔、学生のときにディスカウントショップでアルバイトをしていたことがある。ゴルフとかカー用品の担当だったのだが、だいたい半年に一回ぐらいのペースで、売り場の刷新をすることがあった。ゴルフとかカー用品の配置を一新するのだ。
 
けっこう広い売り場だったので、何日もかけて売り場の改装をする。社員は深夜まで残業していたし、出入りの業者も手伝いにきたりして、かなり大掛かりだった。
 
それに伴い、バイトもかなりの重労働を強いられることになった。そこで、バイトの後輩が僕に、「ベストな売り場ってないんですかねぇ」と言った。「これで絶対にベストだっていう売り場があれば、それを変えなくてもいいんじゃないですか」と。
 
僕はそれを聞いて、少し考えた。確かに、完璧に近い売り場というのはあるかもしれない。でも、時代は変わっているし、客の志向も、需要も、変化している。だから、その変化に対応しなければならないから、刷新というのは必要だろう、と。そういうことをポツポツと話すと、「ああ、確かにそうかも」という雰囲気になった。
 
創造性も、それに似たところがあるかもしれない。確かに過去に生み出された作品で、マスターピースと呼ばれるものは存在する。でも、だからといって、新しい作品が必要ではない、ということではない。時代は常にうつろい、そこに生きる人々の心も変化しているはずだ。そこにリアルタイムで生きているのが我々なのだから、たとえ拙いものであっても、我々が新しいものを生み出すのは意味があるのではないだろうか、と。

冒頭の「こいつらは誰なのか?」という感覚にもどるのだが、「現代」の作品は、「現代」の人が読んで、「ああ、なるほど」とわかる人間のはずだ。現代を舞台にしていない作品でも、必ず現代的な感覚というのは入っている。つまり、「今の自分が自然だと思う形」を表現できれば、それが時代性を兼ね備えたオリジナリティになるのではないか、と。

ものを書けば書くほど、個性やオリジナリティには意味がない、と思うようになった。むしろそういうものを消し去った、その時代を生き、その時代を反映させ、その時代に受け入れられるキャラクターを描くことが、本当のオリジナリティのような気がする。個性やオリジナリティは、その結果、生み出される副産物にすぎない。(執筆時間16分21秒)

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