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「発想法」という言葉が嫌いだ

「発想法」という言葉があまり好きではない。いまのご時世、頻繁にみられる言葉で、本屋に行くと発想法の本が山ほど置いてある。それだけ本があるということは需要があるということなのだと思うが、需要があるということは発想法に飢えている人々が多いのだろう。
 
僕は、発想、という言葉を考えるとき、反応、という言葉を対にしてよく考える。発想の対義語は反応だと思う。なにかベースとなる事象があって、それに対して反応する。世の中の大半の人は、「発想」はほぼゼロで、「反応」しかしていないのではないか、と僕は観察している。
 
テレビゲームについて考えてみる。画面の中のキャラクターを操作する。すると、敵が襲いかかってくるので、それを倒す。アイテムを見つけたので、それを拾う。どこかに宝物があると言われたので、それを探す。最近は創造性を求められるゲームも増えてきたようだけれど、ゲームの基本は「反応」であり、自ら「発想」するということは少ない。
 
小説を書いたり、作曲をしたりする行為は、何もない白い画面に文字を書いたり、音符の書かれていないDAWの画面に音を打ち込むところからはじまる。これは、反応の元となるものが何もない状態からはじまるので、「発想」に近い作業が必要になるのでは、と思う。「何をやるか」を決めるところからはじまるものは、「発想」の作業がどうしても必要になる。

発想法、という言葉が世の中に溢れている。別に発想法という言葉自体が嫌いなわけではないが、世の中に溢れているせいで、ずいぶんと陳腐なものになってしまっているように感じる。そんなに「発想」に飢えているならば、自分なりの「発想法」について「発想」してみてもいいのでは、と思う。
 
僕は自分の脳、つまり、これまでの経験が蓄積してきた記憶の束から、何かが引き出されるのが面白いな、と思う。寝るときに見る「夢」は面白いが、「夢」というのは、100%、自分の「記憶」から発想している。夢を見ているときは、寝ているわけだから、外部からのインプットはない。インプットゼロの状態で発想して、あれだけ面白いものが見られるのだから、努力や工夫をすれば、ゼロベースで面白い発想などいくらでもできるのでは、と思うのだ。
 
発想法は嫌いだ、といいつつも、ひとつだけ採用している発想法がある。ブレインストーミングと呼ばれる手法だが、毎朝、会社に着いたら、いま手がけている仕事をゼロベースでブレインストーミングする。5分間、タイマーをつけて、メモ帳に、思いつくままに仕事のテーマについて箇条書きにしていく。メールもノートも参照しない。いま自分の脳内で把握している情報だけで、いろんなことを発想していく。
 
発想には、正確な記憶は必要ない。正確なデータが必要になれば、あとから参照して引っ張ってくればいいだけだ。自分の脳の中にある情報だけでじゅうぶんで、むしろ外部から参照したりすると、「発想」ではなくただの「反応」になってしまう。

こうやって毎日文章を書いているのも、「発想」を鍛える方法の一環になっている気がする。僕はここで文章を書くにあたり、なんの資料も参考にしていない。自分の頭で考えたことを、ただ書き記している。
 
世の中に出回る「発想法」が、いかにチープなものか。「発想」は、頭の中で行うもので、手法は必要ない。自分の頭で、真っ白な紙に、アイデアを書き付けていく。それだけでいいのだ。(執筆時間16分2秒)

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