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「きみはオフィーリアになれない」 川嶋美禰子 後編 #110

 美穪子がさらに一歩を踏み出すと、少女は薄く笑い、そして消えた。少女が消えた場所には、白い魚が、ぐったりと横たわっていた。
「それに触ってはいけません」スピカと名乗る少年が背後から声をかけてくる。美穪子はゆっくりと振り向いた。
「どうして?」
「……」スピカと名乗る少年は何も言い返さない。
「答えられないんじゃない。安達凛子のゾンビ計画が実行できなくなるから?」
「いえ、そうではありません。あんまり、こちらの世界とあちらの世界を行き来すると、負担が大きくなるからです」
「なんの負担?」
「精神の負担ですよ。ふたつの世界の記憶が混ざって、混沌としてきます。それに、身体にも影響が出る」
「別にかまわないわ。来たくて来たわけじゃないもの」
「じゃあ、もう止めません」
 美穪子は少しスピカと名乗る少年の言うことが気にかかったが、構わず、白い魚のもとへと寄った。部屋の中央まで来ると、そこは広い空間だということがわかった。かつて美穪子が閉じこもっていた部屋と似ているが、少し違う。美穪子は深呼吸をして、床に落ちてぐったりとしている魚を拾い上げた。
 魚は濡れているわけではないのに、ぐったりとした身体を持ち上げると、鱗の部分のぬめりが指に絡み付く。魚は軽く身を震わせた。
 噛まれる、と美穪子は思った。ここに来たときと同じように、魚が身を翻して……そして、元の世界に戻れる。
 魚は美穪子にまっすぐその牙を突き立てた。

 すべては夢だったのか、と美穪子は思った。目を開けたが、暗闇の中にいるせいで、何も変化が見られない。そのまま寝てしまおうかとも思ったが、身を起こして、部屋の明かりをつけた。
 目が慣れるのにしばらく時間がかかる。ぼうっと窓の外を眺めていると、次第に頭がクリアになってきた。ここは自分の部屋だ。そして、ここはまぎれもない、現実の世界だ。帰って来たのだ、と美穪子は思った。
 瀧本は隣の部屋で眠っているのだろうか。いまこの部屋を飛び出て隣の部屋に行ったら、会うことができるのだろうか。もしそんなことをしたら、なんと言うだろう。瀧本は向こう側の記憶を持っているのだろうか。持っていなければ、自分が言うことなんて理解してもらえないに違いない。
 そうだ、向こうの記憶を持っていなければ、向こうの記憶を持ってきていなければ、それは「なかったこと」と同じになるんだ。瀧本が自分に対して言ってくれた言葉。瀧本が自分に明かしてくれた秘密。それらも、瀧本が向こうの記憶を持っていなければ、なかったことと同じになるんだ。美穪子は、なんだか、瀧本の秘密を勝手に覗いてしまったような、そんな恥ずかしい気持ちになると同時に、手が届かないぐらい遠い存在になってしまったような気分になった。
 瀧本のところ行くべきか、行かないべきか、迷いながら朝を迎えた。結局ほとんど寝付けなかったが、たとえ眠気がおそってきたとしても美穪子は眠るのを拒否しただろう、と思う。今度眠りについたら、どんな世界に連れていかれるのかわかったものではない。

(つづく)


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