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スポーツの精神とはなんなのか?

オリンピック関係者の解任が相次いでいる。

オリンピックの開会の直前になって、開会式の音楽担当がスキャンダルで辞任に追い込まれ、開会式の前日になって開会式のディレクターがこれまたスキャンダルによって解任となった。

オリンピックに関しては個人的にあまり関心がなかったので、何が起きてもさして注目していなかったのだが、こうも直前になっていろいろな事態が起こると注目せざるを得ない。これを書いている現在ではまだ開会式というのは行われていないわけだが、一体どうなってしまうのか、と関係者でもないのにヒリヒリしてくる。
 
作曲者が、いわゆる「炎上」していたときは、まあ本人にも資質の面で問題があり、仕方がないのかなということをぼんやりと思っていたのだが、開会式の前日になってディレクターが解任されるという事態にはさすがに驚いた。

もちろん個人的に知り合いというわけではないが、もともと芸人で、どういうネタをしている人かは知っている人だったので、やや擁護するという視点も含まれていたかもしれない。しかし、どちらもはるか昔のことであり、このタイミングになって掘り起こされるのは、オリンピックに対する妨害としか思えないし、オリンピックに反対する勢力の存在を強く感じた。

考えてみれば、緊急事態宣言を受けて割りを食っている人々なんて大勢いることだし、「オリンピックを潰す」ことを目的としてピンポイントにスキャンダルを掘り起こしてきて攻撃する勢力がいるのだとしたら、ある意味有効な攻撃方法なのかな、と思う。

オリンピック関係者のスキャンダルを暴くために、関係者それぞれの過去何十年にもわたって作品をチェックしたりしたのだろうから、それに対する労力を思うと、もはやこれは個人ではなく、なんらかの組織によるものだ、と思えてしまうが……。


 
今回の運営委員会の処分を受けて、オリンピックや、スポーツの意義の解釈が自分の感覚とはずいぶん違うんだな、ということをあらためて思った。なんだか、自分の感覚とは真逆のことが起きているからだ。
 
オリンピックというスポーツの祭典を開催するにあたって、政治的な信条をそこに持ち込まない、というのは、つまり「政治的な信条はどうあれ、オリンピックというスポーツの祭典においてはそれは無効にしよう」ということだと思う。近代オリンピックや、近代スポーツの精神は、こういうところが出発点なのだと僕は解釈している。
 
それは「どういう信条をもっていても、オリンピックならびにスポーツの場においては不問にする」、という意味なのではないのだろうか。たとえ戦争中であったとしても、オリンピックの場においてはそういった政治的な対立とは無関係に、スポーツマンシップの則って厳粛に行う、という建前のはずだ。

であれば、オリンピック関係者の「素質」を問うて、不適切とされる人をそこから排除するというのはなんだか筋違いに思える。極端な話、関係者がたとえ差別主義者だったとしても、大会運営においてそれを持ち出さない限り、不問にするというのが本来のコンセプトなのではないだろうか。

そして、今回スキャンダルで槍玉にあげられた人たちは、そのいずれも何十年も前の出来事であり、そもそもが的外れであると僕は個人的には思っている。


 
少なくとも、過去のスキャンダルを掘り起こして大会をめちゃめちゃにしてやろうという意思のあるグループがいて、攻撃方法としては非常に有効であると思うわけだが、まずは「金にまみれたオリンピック」という印象を払拭するところからはじまるのではないだろうか。

「世間で思われているイメージ」と、「建前のイメージ」にあまりにも乖離がある、というのが本質のように思えてならない。

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