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バスの車窓から、首都高の風景

先日、所用があって高速バスで首都高を走っていた。

バスは座高が高いので、乗用車では見えにくいものを見ることができる。コマツの本社が見えてきたときに、そういえばこのあたりは溜池山王だったなと思った。コマツ本社の向かいに首相官邸があるのだ。

残念ながら、首都高からでは官邸そのものは見ることができないが、歩道を警備している警察官の姿は見ることができた。
 
当たり前の話だが、首相官邸に押しかけている群衆がいるわけでもなく、周囲は閑散としていた。政権批判などが繰り広げられてはいるものの、それはあくまでインターネットの中での話で、現実世界に反映されることは少ない。

それは芸能人のスキャンダルとかでも同じようなことが言えて、最近の主要な出来事というのは、現実世界というよりはむしろバーチャルな空間に影響を与えるのだ。
 
都議選が終わって、秋には衆院選がある。まだ衆議院は解散していないけれど、任期がそこまでだから、秋のどこかのタイミングで解散することになる。

かなりギリギリまで引っ張ってから解散する、ということはわかっている。現在、東京では感染者数が急増しており、第五波だとかが言われているが、足元ではコロナウィルスのワクチン接種が進んでおり、世界各国の先行した事例を見るに、感染状況はそのうち鎮静化するはずだ。

もちろん首相官邸では、夏の終わりまでにワクチン接種を完了させて、感染拡大を抑えることを意図して動いているはずだ。これがあと半年早かったら、オリンピックも観客ありで実施できたかもしれないが、まあそんな「もしも」の話をしても仕方がない。


 
自民党は負けるのだろうか。これまでの飲食業界に与えたインパクトからして、飲食店の経営者などは、自民党には絶対に票を入れないとは思うが、であれば一体誰に入れるのか。

僕は別に自民党を支持しているわけではないが、自分の選挙区においていちばんまともそうな人に入れるようにしている。たいていは消去法になるが、消去法でも入れるべき人がいない、ということが非常によくある。

じゃあどうするのかというと、最終手段として、「現職の議員」に入れるしかない。
 
現状でもそれなりに社会が成り立っているのだから、とりあえず現職の議員に投票する、というのは選択肢として最後に残る。もちろん、いい人がいれば投票するのだが、いないのだから仕方がない。

でも、これって、確かに民主主義の形態を踏襲してはいるものの、本当に民主主義と言えるのだろうか。だって、選択肢がないのだからそれに入れるしかなかったのに、これが「民主主義」と胸を張っていえるだろうか。

JRしか路線がない田舎で、JRに乗るのと少し似ている。オプションがないから、とりあえずいまの議員に入れることしかできないのだ。セカンドオプションが実質的に存在しない。
 
少なくとも、定期的に政権が入れ替わる仕組みがあったほうがいいのかな、ということを思う。長期政権が続くと、与党が力を持ちすぎるし、野党が対抗馬として成立しない。民主党政権のときは偶然政権交代が実現したけれど、そのときのありさまはまあご承知の通り。

野党も、まさか政権がひっくり返るとは最初から考えていないから、言いたい放題言っている。これが健全な民主主義なのかというと、かなり疑問だと思う。
 
議員を自分たちで選び、その人たちに政治をしてもらう、というのがいまの仕組みではあるけれど、もっと国民が主体的に「社会に関わっている実感」があればいいのかな、と思う。英国のブレクジットのときは国民投票で混沌として、国民にああいった難しい決断を迫ること自体がナンセンスだ、という識者の意見も見られたけれど、自分たちのよく知らないところで物事が進行していくほうがまだいいよな、と個人的には思う。

何より、それが「民主主義」ではないのか。民衆がバカで損をしても、それが民主主義なのだから、仕方がないよね、という考え方だ。


 
消費者的に、自分たちが税金を払って、政治家に政治をしてもらう、という構造が、少しでもいいのでは変わればいいのにな、ということを思う。少なくとも、選挙に参加したぐらいでは、全く政治に関与できている実感はない。
 
こういった、基本的な統治システムというのは未来永劫、革命でも起きない限り変わらないのかな? ということは考えます。

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