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Twitterは人類には早すぎた

ちょっと前にたまたまYouTubeでホリエモンの動画を見ていたら、「Twitterの炎上」についてコメントしていた。曰く、Twitterは炎上しやすいSNSなので炎上するのは自然なことだ、と。

その理由について、彼は「読解力のない人々が多くいるからだ」と説明していた。まあ、彼は物議を醸す発言をたびたびしているため、アンチのことを「読解力がない」と一括りにしているのでは……と思わなくもなかったのだけれど、インターネットにおけるここ数年の「炎上」について振り返ってみると、Twitterによるものが多いように思われるので、一理あるのかもしれない。少し、Twitterと炎上について考えてみたいと思う。
 
Twitterというのは、言うまでもなく文字を主体にしたメディアだ。YouTubeが隆盛で、インスタグラムやTikTokなど写真や動画を主体にしたメディアが増えている中で、SNSとして老舗であり、ちょっと「堅い」印象があるかもしれない。

もはや、いろんなSNSをやっていてもTwitterが「本家」とみなされるような傾向もあり、公式ホームページのようなオフィシャル感が出ている。日常使いはもちろん、地震が発生したときや、電車の遅延情報など「情報の速報性」があるので、そういう意味でも便利に使っている。
 
しかし、本来、自分の言いたいことを140字にまとめるというのは至難の業だ。また、相手の言いたいことを140字以内で読み取れ、というのも、かなり高いレベルの読解力を要求していると思う。

つまり、書き手は自分が言いたいことをコンパクトにまとめる能力が求められ、読み手も高い読解力が要求される、なかなか大変なSNSであるといえる。

もちろん、連投された前後のツイートから「行間を読み取る」こともできるのだけれど、いちいち誰かのツイートをまとめて読むのは骨が折れるし、そもそもそうやって複数のツイートを参照しやすい仕様になっていない。ツイートのあとに別のツイートを重ねると簡単に埋もれてしまうし、リツイートで回ってきたツイートの前後を参照する、なんて面倒なことを多くの人が日常的にしているとは思えない。

また、拡散性の高さが炎上をさらに容易にしている。つまり、「誤解を生みやすい」そもそもの設計に加え、「誤解を拡散されやすい」構造になっているのである。そりゃ炎上もするよな、という感じ。


 
僕はnoteをやりはじめてから、すっかりnoteが「本元」になってしまい、ツイッターはほとんどサブ的な扱いになってしまった。何か発信をするのであればnoteのほうが格段に書きやすい。また、ひとつの意見のまとまりとして発信できるので、炎上する心配も少なく(よほど倫理的に問題のあることを書かなければ)、とても快適である。

もっとも、Twitterでも炎上したことなどないのだけれど、書きやすさ、読みやすさでいえばこれに勝るメディアはいまのところないかな、と。
 
そういえば、数年前に著名人である落合陽一氏とTwitterでちょっとした論争というか、リプライの応酬をしたことがあった。こっちは相手に対するリプライで返していたのに対し、落合氏はすべて「引用ツイート」で返してきたため、落合氏のフォロワーにやりとりが筒抜けになり、ちょっと不快な気分になったことを覚えている。

落合氏のフォロワーは当然ながら落合氏のファンだから、氏の味方をする蓋然性が高く、憤った熱狂的なファンに絡まれるのでは、と思ったのだ。もっとも、お互い至極真っ当なことを言っていたので、外野から石を投げられるようなことはなかったのだが、氏はそうやってTwitterを使うのか、ということを象徴する思い出としてよく覚えている。


 
誤解をするほうもするほうだけれど、それを誘発するような行為もまた存在するわけで、なかなか難しい。できれば、ある程度は量のある文章を書きたいし、また読みたいと思うので、これからもnoteを主体に続けたいと思う。

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