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謝罪に意味はない

もちろん自慢ではないのだけれど、これまでの人生で土下座をしたことがない。おそらくこれからもすることはないと思う。土下座と言わずとも、ちゃんとした謝罪をしたことさえ、そんなにはないかもしれない。
 
世の中には、超人的に謝罪がうまい人がいる。もちろん、誠意をもって首を垂れている、というのわかるのだけれど、あまりにもそれがうまいと、どこか気が抜けてしまうというか、その場が急速に「おさめられてしまう」感じがする。

そういう意味で、謝罪というのは一種のスキルであると思う。日常的に謝っている人は、とにかく謝罪がうまいからだ。
 
日常的に謝罪をしている人というのはどういう人だろうか。例えば、接客業の人などが挙げられるだろう。こちらに非があってもなくても、どれだけそれが理不尽でも、日常的に謝罪を要求される仕事だ。
 
以前、本で読んだ、フライトアテンダントの謝罪エピソードが面白かった。曰く、飛行機の機内食で、肉か魚かを選ぶことができるが、著者のところにフライトアテンダントがワゴンを運んできたときに、片方の料理を切らしてしまったのだそうだ。なので、著者には選択権が与えられなかった。

しかし、そのときはフライトアテンダントの「完璧な謝罪」によって、腹が立つ気持ちが湧いてこなかったのだという。

しかし、問題はそのあとだ。後日、また同じ便に乗った時に、前回と全く同じことが発生した。そのときも、完璧な謝罪をされた、というのである。


 
つまり、「謝罪力」がすごいのでクレームに発展しないのだが、「その場をおさめる力」があまりにすごいため、そこで問題が「ストップ」してしまう。

機内食でどちらかの料理が偏って注文される傾向にあるなら、改善策として、実績に応じて発注比率を変化させるとか、あるいは思い切って人気のほうに一本化するとか、いろいろと改善案はあると思うのだが、とにかく謝罪の上手い人たちなので、そういった改善にエスカレする前に問題がおさまってしまう。「根本的な問題解決」はなにひとつ行われていないにも関わらず、だ。

つまり、この場合は、すごい謝罪スキルによって大きな問題には発展しない一方で、それが弊害となって根本改善につながらない、という構造的な問題がある。


 
謝るというのは大切なことだし、過失があったときはそれを認めるべきなのだけれど、謝っても問題は解決しない、というのはとても基本的なこととして抑えておく必要があるだろう。

むしろ、きっちりと謝罪をしたことで、「謝罪をした側が罪を償った気分になって、気持ちよくなる」ことすらある。だから、僕はあえて「謝罪にはなんの意味もない」のではないか、と最近は思っている。むしろまったく謝らないぐらいのほうが誠実なこともある、ということだ。
 
本当に非があったら謝るべきだけれど、それは物事がひととおり片付いてからでいいだろう、と思う。

ほぼ無意識に「すいません」と言う人がいるが、そういう人は信用できないな、と僕は思う。

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