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「エデンに堕つ」 桜田優編 #082

 優は会話をしながら、ダイニングテーブルの上に置かれているスマホに素早く目をやった。これは自分のスマホではない。おそらく、この男が所有しているものだろう。なぜそのスマホが気になったのかというと、そのスマホケースに見覚えがあったからだ。パッと見たときに、『エデン』のロゴが見えたので、おそらく『エデン』公式のスマホケースなのだろう。なぜだろう、どこにでもありふれたデザインなのに、何かが引っかかる。
 視線をはずして、俯くフリをしながら、そのスマホケースについて必死に思い出していた。そうだ、と思い当たる。あれは、宗介が使っていたスマホケースと同じだ。確か、宗介は『おひるね宣言』というグループが好きで、同じものを買っていたはず……。
「誤解しないで欲しいな。誰も君を監禁なんてしていない。ネットで検索してみるといい。むしろ、僕たちが君を救ったのだということが、すぐにわかるだろう」
 男は立ち上がり、キッチンのほうへ向かった。そして、台所に置いてあったビジネス用のカバンを手に取ると、玄関のほうへと歩いていく。
「さっきも言ったように、君は自由だ。そこにあるスマホは、君が使えばいい。今まで君が板橋の家で暮らしていたように、ここで過ごせばいい」
「どこに行くんですか?」
「どこって、会社だよ。あとは君の好きにしていいから」
 男はそう言い残すと、部屋を出て行った。優は半ば呆然と、その後ろ姿を見送った。ソファに深く腰掛け、深呼吸をする。デジャブか、と思った。これとほぼ同じ光景を、いつか見たような気がする。いや、これはデジャブなんかじゃない、板橋のマンションで自分が体験したこととほぼ同じ光景が繰り広げられている。家の中に全く生活感が感じられないところまで同じだ。
 男は出て行った。本当に、何もわからないまま、優はひとり、部屋の中に取り残された。
 いま何時だろうか、と時計を見る。時間は昼をまわっている。昼過ぎに会社に行くなんて、あの男は本当に会社員なんだろうか、と少しピントが外れているようなことを考えた。
 窓の外は街の風景だったが、その風景に見覚えはない。なんとなく、坂が多いようなので、東京の西側か、というような感じがするぐらい。
 自分がなぜここにいるのか、その現実感のようなものは、もちろん全くない。だが、それはここ数ヶ月、ずっと同じ感覚だった。
 ひどく空腹だった。いつから食べていないのか、思い出せない。優はキッチンに行き、戸棚を開けたが、ほとんど空っぽで、まるで入居したての部屋のようだった。
 ダイニングテーブルのところまで戻り、テーブルの上に置かれたスマホを手に取り、画面をつける。パスワードも必要なく、それはすぐに起動した。『エデン』をはじめ、基本的なアプリが入っている以外は、特にこれといった特徴のない端末だ。
 ひとまず『エデン』を起動しようとしたとき、電波が一切入っていないことに気が付いた。画面の右上には『圏外』と表示されている。この部屋にwi-fiはないのだろうか、と優は思った。あたりを見渡しても、ルーターのようなものはどこにもない。

(つづく)


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