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一年の忘却

ひとは一年間生きると、いろいろなことを忘れる。一年前に食べたものを覚えている人はいない。しかし、行った場所とか、会った人のことを覚えている人はいるだろう。誰とどこに行ったかが思い出せれば、何を食べたのかを思い出すこともできるかもしれない。しかしそれは、「誰かとどこかにいった」というある種の「事件」であり、些細な日常というのは、その他の雑多な記憶と十把一絡げになって、記憶の泥濘に沈んで溶けてしまう。機会がなければ、それは永遠に失われ、二度と戻ってはこない。

僕は自分だけが見ることのできる日記を毎日つけている(ほんらい日記というのはそういうものだが)。最近は、800字ジャストで書くことにはまっている。最初は書ききれなかったり、逆に少なかったりして800字で書ききることがなかなかできなかったのだが、最近はほぼぴったりで800字で書けるようになった。
 
字数を決めることのメリットはいくつかあるが、その中でも一番は、内容の濃淡によってその日の密度がわかることだろう。仕事でイベントごとがあったり、出張だったりすると、内容が濃いので事実の羅列だけであっという間に800字が埋まってしまう。一方、休日で引きこもりのような内容の薄い生活をしていると、事実の羅列だけでは800字までいかない。そういう場合は、考えていることとか、懸念していること、やりたいことなどを適当に書いて字数を埋める。僕は無限に文章を書くことができるという特技があるので(こんな文章を毎日毎日書いていることからもそれは明らかだと思うのだが)800字ぐらい埋めるのはそう難しいことではない。毎日、10分足らずで書くことができる。
 
で、日記は、ちょうど「一年後に読む」ことにしている。だいたい一ヶ月単位で読み返すことが多い。いまだったら、2018年の10月の日記を読む。一年経つと、色々なことを忘れているもので、「ああ、これがあってから一年なのかぁ」と結構楽しめる。たまに日記を使って「先月を振り返る」人もいるのだが、どうせ振り返るなら一年前のほうがいいと思う。いろんなものを置き忘れているとしたら、それは一年前のほうが多いと思うので。
 
実利的にもメリットがあって、「一年前に会った人で、最近連絡をとってなかったから連絡してみよう」などと連絡を取りやすい。「ひさしぶり~」と言えるギリギリの期間だとも思うし。よく「一年ぶりで、よく思い出しましたね」と驚かれることもあるのだが、それは日記によって実現できているわけで、文明の利便さを感じる。それにしても、あきれるぐらい、人は本当にいろんなことを忘れるものだ。

そういえば、本も、一度読んだ本は一年間は再読しないと決めている。一年も経てば、本の内容の8割ぐらいは忘れているから、再読したときには初読のときと同じぐらい感動を体験することができる。その一年間のあいだに自分も変化しているから、また違う感想をもったり、違う箇所に着目したりすることができるし、そういった変化を楽しめるのもまた利点のひとつだ。
 
ブログ記事はあまり、というか全く読み返さない。書きっぱなし。なんででしょうね。ちょっと恥ずかしいからかな……。あと10年ぐらい経ったら、また読み返そうかな。(執筆時間11分18秒)

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