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「絶望の国の幸福な若者」で、いいんですか

社会学者の古市憲寿が、師匠である小熊英二氏と対談している本を読んだ。

2014年の出版なので、少しだけ古い本になる。個人的には、古市憲寿氏はあまり好きではないのだが、著書を読んだことはあるし、小熊英二の著作は以前からよく読んでいるので、読んでみることにした。
 
さすがに師弟だけあって、古市氏のフワフワした「若者っぽい」ところをコテンパンにこき下ろしているのがなんとも痛快なのだけれど、いくつか考えさせられることがあった。古市氏が主として展開する、「若者論」についてだ。
 
古市憲寿氏は、いまの若者に蔓延する「空気感」を描いた「絶望の国の幸福な若者たち」という本で有名になった。

これより以前に、自身の修士論文を下敷きにした「希望難民ご一行様: ピースボートと「承認の共同体」幻想」という著書を上梓している。

どちらも、「いまの若者に蔓延する不安と幸福」というフワフワした「空気感」について、「若者」という立場から切り込んだものになっている。これを、小熊氏は、「(当時の)新著『絶望の~』は、科学的に分析する訓練を積んでいるのに、それを活用せずに、たんなるエッセイになってしまっている」と批判する。

「エッセイというのは、書く前と書いたあとで、著者自身が変化しない。いい書物とは、書いている最中に、著者が化学変化を起こし、成長するものだ」と。

古市氏は、きちんとしたフィールドワークを経て科学的に書くのではなくて、いまの若者の空気感を、若者として表現したかったのだ、と反論をする。その反論もいかにも若者らしいものだな、と感じてしまう。

僕は、「若者論」というのは誰にでも語れてしまうから危険だと思う。誰だって、若者だった時期はあるからだ。そして、若者は「共感」を求めているから、「こういう気持ちって、あるよな」というものは無条件に支持してしまう。

でも、「共感」を集めるだけのエッセイももちろんあってもいいのだけれど、それだけでいいのかな、というようなことも考えてしまう。いま、みんなが必要としているのは、「具体的にどういう行動をとればいいか」「どういう訓練をしておけばいいか」ということだと思う。

もちろん、絶対的な正解はない、というのを前提条件にして、だが。
 
古市氏の主張する「若者」の空気感というのは、タイトルに要約されていて、一般的にいまの若者は貧しいとされているが、本人たちはそれなりに幸福ですよ、別に高価なものは買えないけれど、それで特に困窮しているという自覚はないですよ、というような内容だった。

この「空気感」というものに対しては、僕も概ね同意する。しかし、今後、10年、20年と時間が経つなかで、「2011年の震災直後はそんな呑気なことを言っている人がいたね」という意味で、歴史的な本になるかもしれない、と小熊氏は指摘する。

いまのコロナの状況で、このときの「10年先」という話が、急速に縮まったかもしれない。
 
小熊英二氏の言葉は、まるで自分に向けられたかのようなものもある。「未来で評価される期間はそんなに長くはない。気づいたときには、もう未来に向けて蓄積する余裕がなくなっていることも多い。

どんな関係でもそうだが、まだ未来があるという期待があるうちはうまくいくけれども、今後はよくて現状維持だと思われたときから、いろんな問題が露呈する」。

物事は、アナロジカル(類比的)に考えることが大切だ。僕が思うに、「若者」という存在はどの時代にでもいたし、幸福な時期も、どの時代にもあった。

そのときに若者がどのように行動し、結果、どのような状態になったのか。それを詳らかにして、指針のひとつを提示してくれるといいな、と思う。

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