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「きみはオフィーリアになれない」 川嶋美禰子 後編 #121

 その人に手を引かれてクリニックの中へと入る。女性に薦められるがままに、ソファに腰掛けた。
 美穪子の知っているクリニックそのものだった。内装も、すべてが自分の知っている通りだ。だが、受付に座っている人だけが違う。そこにいるべきはずの自分は、そこにはいない。
 受付の女性はソファに座っている美穪子の隣に腰掛けて、じっと顔を伺っている。
 美穪子はその女性の顏をまじまじと見た。
 自分の顏に、
 とてもよく、
 似ていた。
 女性は小さな、
 赤い花の髪飾りをつけていた。
 派手ではないが、
 その髪飾りのアクセントが、
 とても、
 よく似合っている。
 とても柔和な雰囲気を醸し出している。
「あなた、ここははじめてなのね。大丈夫、いま、誰もいないから……。ちょっと、先生をお呼びしてきますね」
 先生、と美穪子は思った。強烈に、先生のことを思った。
「先生!」
 美穪子は叫ぶと、立ち上がり、足早に歩いた。クリニックの奥にいる、先生に会うために。
 引き戸を勢いよく開けると、瀧本が顏を上げた。先生だ、と瞬間的に思った。
「先生! 瀧本先生!」
 美穪子は叫ぶと、瀧本に抱きついた。
「ちょ、ちょっと」
 瀧本は慌てたが、美穪子はおかまいなしにそのまま抱きついていた。
「落ち着いてください」
 瀧本の優しい声が耳元で聞こえる。その声に、いつもの親しみが含まれていないことを美穪子は敏感に感じ取った。おそるおそる、瀧本から身体を離す。
 振り返ると、受付の女性が目を丸くしてこちらを見ている。瀧本を振り返ると、瀧本も同様の表情をしている。
「落ち着いてください。僕は瀧本と言います。君の名前は?」
 精神的な安定を欠いた人間の対応には慣れているという感じで、瀧本はそう言った。
 君の名前は?
 それを聞いた瞬間、美穪子は目の前がくらくらと歪むのを感じた。
 頭が痺れたようにジーンとしていたが、殴られたような感じとは少し違い、目の前の現実が紙に貼られた紙芝居のような、ぺらぺらの質感になった。
 安物のコンピュータ・グラフィックスみたいに、荒々しい造形を見させられている気分になった。
 ここにいるのは瀧本じゃない。
 そう、いま、目の前にいるのは瀧本じゃない。
「えーと……」
 瀧本に似た男は、言葉を探していたが、美穪子は立ち上がり、クリニックを飛び出した。エレベーターではなく、階段を駆け下り、ビルの外に飛び出した。ビルから飛び出て来た美穪子に驚いたように人々がこちらを見たが、そんなことは構わなかった。死ねばいい、と美穪子は思った。みんな、みんな、死んでしまえばいいんだ。死ぬにはどうすればいいのだろう。この世界に来てしまって、死ぬことはできるのだろうか。

 気付くと美穪子は素足だった。すり傷だらけの足で、アスファルトを踏みしめている。
 来たことのない場所だった。辺りはすっかり暗くなっていて、道路の片側にある商店街の明かりだけが煌々と照らされている。駅の改札が見えたが、駅の中は白い光で満たされて、まるで天国のようだった。美穪子が立っている場所は公園の端に位置していた。公園の中心に広場のような空間があり、それを囲むように設置されているベンチに人が座っている。

(つづく)


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