柳生二千翔「『まばたきの季節』リサーチ報告会+戯曲リーディング」実施にあたって

※イベント詳細:http://www.kac.or.jp/events/25678/

『まばたきの季節』というプロジェクトの名前は、その街の1年をまばたきのように景色や時間を切り取っていく、というコンセプトに由来します。しかし何度も素早くシャッターを切るというよりは、そのスピードはゆっくりで、そこに映った1枚の景色をじっくりと、しかしぼんやりと眺めるような時間になればと思っていました。

滞在制作を通して何かしらの作品を描く、という経験は何度もしています。
しかし、(一つの作品を製作するにあたって、)ここまで長期に渡って、同時にゆるく、一つの土地やそこに関係する人を描く/関わるという経験はなかったので、東京に帰ってきてもずっと続いているというか、全て地続きのような、妙な体験になっています。わくわくします。楽しいです。楽しいという感覚は、クリエーションだけではなくて生活においても大事にしています。死ぬまでどうやってワクワクできるかについて考えています。

昨夏、初めての滞在で、私は戯曲を書きませんでした。書けなかった、というのが正確ですが、秋の滞在の際、その時のことを以下の様に述懐しています。
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夏は、その場所に滞在することを通して、浮ついた状態(観光気分)から脱すること/土地に身体を馴染ませる感覚を意識的に大事にしていました。外部の人間が、初めてその土地にやってきて触れる新鮮な体験、一面的なおもしろさを表すことで『消費』したくないということが頭にありました。
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最初の滞在のスタンスの上で実際に制作していったおかげで、私の”時間の感覚”が変化しました。
普段製作する際、街を空から鳥瞰して書いているというイメージでした。ある部分で、そこの時間の幅は狭かったように感じます。一瞬を描いていました。もちろんこれは悪いことではありませんが、作家がどの程度認識できているかどうかによると思います。私は少々曖昧だったように思います。
京都の滞在を通して描いた『ウォーターフロント』は、川の土手に座り、遠くの対岸で起こるそれぞれをスケッチするように書きながら、同時に季節がどんどん移ろいゆく時間の変化や広さを描くことができました。これは劇作を続けていく上で、良い成長だと思います。

本企画を始める際、「演出家が自由に上演方法を想起できるような「余白」のある戯曲をつくるということ」を念頭にしていました。私が”今、この場所”という現在に作品の構造を依拠したものを作り続けてきたためです。
究極、優れた演出家はどのような戯曲やテキストでも上演できます。
ですがテキスト自体の豊かさをもっと広げることで、舞台芸術として立ち上げる際に、もっと様々な可能性を付与出来たら良いなと思っています。これは私の劇作家としての欲です。

発表する2編のテキストは、アプローチを変えて取り組みました。
川を舞台に、その周辺に暮らす人々の生活を俯瞰しながら描いた戯曲「ウォーターフロント」と、柳生自身の個人的な生い立ちを背景とした、極私的な目線で人(街)を描く戯曲「ふちどり かたぬき 愛とよべよ」。
遠近、2つのレンズを通して、一つの街の1年間を描きます。

イベントでは私の滞在の報告や、俳優による執筆した戯曲のリーディング、そして若手作家のゲストを交えてその感想など戯曲(言葉)についてどのように向き合っているかなど、ディスカッションを行います。

私は戯曲を、口に出して音にしてもらうことによって、はじめて意味を持ち始めるものだと考えています。音にされる前提にあるものです。演出家として俳優をオファーする際も、かなりの割合で「声」によって決めます。それほど重要な工程です。

読んだ時の印象と、声に出して読まれて空間に立ち上がった時の印象、その差異は一体どのようなものでしょうか?
私が書いた言葉が、私のものではなくなる時間を作り、改めて戯曲について考えを深める時間になればと思います。

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