鵺のなく夜【掌編小説】
寒さの中、肌色と呼ぶにはあまりにも淡い色が、小さく小さく震えていた。彼女のセーターからわずかに見える指が、寒さに耐えるその手が、暗い部屋の中に灯るあかりのようだった。
彼女はそっと近づいて僕の温かな頬に触れた。きしきしとベッドが音をたてる。彼女の細長い指が僕の輪郭を優しくなぞった。それは驚くほど冷たくて、心臓を鷲掴みにされたようだった。白波のような手が頬を滑り落ち、膝の上に置いていた僕の手に打ち寄せた。遠くで鵺の声が聞こえる。もう夜だ。
彼女は歳を取らなかった。なぜだか分からないが、ずっとそのままの美しさを保っていた。僕が何歳になろうと、彼女はずっと十七歳のままだった。出会ったころのまま。そうしてガラスケースに閉じ込められた花のような、深い孤独を背負って生きていた。朽ちることも許されないまま、姿だけは時を止めていた。
「もう何十年も時間が止まっているの」と彼女が僕に言ったことがある。僕が冗談めかして「そのままでいいよ」と返すと彼女は悲しそうに笑った。
「あなたを殺してみたい」
彼女が僕の手を強く握り言った。
僕はとくに驚きはしなかった。彼女は長い孤独を一人で生きていく過程で心が朽ちてしまったのだろうと思った。その美しい肉体よりも先に、心が朽ちてしまったのだと。
「あなたを殺せば、長い時間のなかで失ってしまった大切ものを取り戻せる気がするの」
「いいよ」僕は静かに頷いた。
彼女は僕の手を優しく包み込んだ。僕のぬくもりは、すでに彼女に奪われていた。
「ごめんなさい」
「謝らなくていい。君がそうしたいなら、すればいい」
その言葉を聞いて、彼女はゆっくりと僕の首に手を伸ばした。小さな掌でたしかめるように僕の肌に触れてから、首をつかんだ。締めやすいように顔を上に向けると、彼女は掴む手に力を込めた。そして僕の首を一気に締め上げた。乾燥した肌と、彼女のしなやかな指が歪な音をたてる。彼女の親指が僕の喉を強く圧迫した。彼女の指と溶け合うような感覚がする。熱くて、視界が徐々に真っ赤に染まるような。なにか、ひとつになるような。
「やっぱり、無理よ」彼女はいきなり手を離した。解放された器官がいっぺんに空気を吸い込む。僕は何度か小さくせき込んで彼女をみた。彼女は泣きながら僕に言った。
「あなたを死なすなんて、やっぱり無理よ」
「どうして?」
「わたし、もう孤独じゃないもの。だってあなたがいる。孤独じゃないのにひとりを選ぶほど、強くないもの」
彼女はそう言って僕の赤くなった喉元をゆっくりと撫でた。優しく、何度も、丁寧に。彼女の伸びた爪が、僕の皮膚を何度も連れ去りそうになった。僕は少しうつむいてセーターからのぞく細い手首を見ていた。しばらくすると動きが止まった。彼女の指は、僕の首元にとどまったまま、震えていた。
「これからも一緒にいてくれる?」
「いいよ。僕が死ぬまでなら」
どこかで鵺が鳴いている。まだ、夜は明けない。
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