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『ある集落の●』「べらの社」試し読み②

【二】

伯父の言葉の意味は、その時の私にはよく分かっていなかった。ただ、世話になっている伯父が申し訳なさそうに頭を垂れている姿に居心地の悪さを覚え、とりあえずは話を切り上げて、日の高いうちに姉の元に行ってみようと思った。

べらの社のあるお山には、子供の頃に何度か行ったことがある。山道は曲がりくねっていても一本道で迷うことはない。

案内を断って、私は一人、お山へ向かった。

きれいな円錐の形をしたお山は、集落に置き去りにされたかつての庄屋屋敷の裏に、こんもりと座している。

GHQの農地改革で小作人たちに田んぼを明け渡すこととなった集落の大地主は、青森大空襲で焼けた町の復興のための事業を始め、戦後間もない頃に青森市内に居を移したと聞いた。十年ほど前までは分家の人間が住んで管理していたものの、そちらも代替わりを機に集落を出ていったそうだ。

お山はその地主が所有しているものだが、昔から集落の人間は自由に出入りすることが許されているらしい。社の手入れは今は集落の住人が輪番でしているという。

伯父の家から地主の屋敷までは、田んぼの中を通る狭い未舗装の道路を歩いて十分ほどの距離だった。

広くはない山間の平地に、寄木のようにみっちりと拓かれた田は、青々とした稲穂が時折吹く風を受けて揺れ、不思議な波紋を描いていた。

道端の草むらで、キリギリスがぎいぎいと競うように鳴いている。この時間に農作業に出ている人はおらず、田んぼの向こうに軽トラックが走っていくのを見かけただけで、私は誰にも会わないまま旧庄屋屋敷までたどりついた。

昔に訪れた時には立派なお屋敷という印象だったが、今は荒れ果てた廃屋としか見えなかった。

屋敷を囲う板塀は取り払われていて、雨戸も全て外されていたので、縁側から広い屋敷の中を見通すことができる。開け放たれた障子は木枠だけが残り、板の間に格子の影を落としていた。

屋敷の前面は広い庭となっていて、夏草が高く生い茂っていた。庭の横を流れる小川が涼やかな音を立てている。草の中に横倒しになった灯篭の上で、メジロが鮮やかな黄緑の羽を休めていた。

庭の右手は花壇の名残か、青紫色の花が咲き乱れている。袋状となったいくつもの小さな花弁が葡萄のように垂れ下がった美しい花だった。

昔は水仙や輪菊、牡丹といった色とりどりの花が植えられていて、近くで遊ぶ子供たちは庭に入ってはならないときつく言われていた。言いつけを破り蝶を追って花壇に入り込んだ時は、普段は優しい祖母にこっぴどく叱られ、拳骨を落とされた。

庭に沿って屋敷の裏側へ回ると、そこは一つも窓のない壁となっている。雪国の家屋は北から吹きつける風雪を防ぐために、このように南側に開口部を集める造りとなっているのだろう。黒々とした板壁はよほど頑強な木材を使ったものか、持ち主を失って十年が経っても朽ちた様子はない。

長々と伸びた家の壁を、しばし圧倒されて見つめていた。

ほぼ真上から照りつける強い日差しのためか、軽い眩暈を感じて我に返る。早く社へ行かなくてはいけない。

登り口を探してお山の方を振り向いた時、ふと、首の後ろ辺りにちりちりとした感触を覚えた。

まるで、誰かに見つめられているような。

どくんと心臓が踊った。

こちら側に窓はない。だから、そんなはずはないのだ。

そう分かっていても、二の腕にぷつぷつと鳥肌が立ち、額に汗が浮いた。

息を吸おうとしても、少ししか吸えない。あえぐように空を仰いだ。

振り返って確かめる必要はないと、自分に言い聞かせ、足を踏み出す。

息を吐ききったあと、ゆっくり大きく吸った。

一歩、もう一歩と足を踏み出すうちに、背後に感じるおぞましい気配は薄らいでいったが、その気配の主が何であるかを考える気にはなれなかった。

そんなことより姉の元へ急ごうと、知らず早足となる。

お山に近づくにつれて、蝉の声が大きくなってきた。気持ちを落ち着かせ、目を凝らすと、椎の木と木の間に高さ五〇センチほどの小さな石柱が立っていた。

角が欠けた石柱の表面は大分すり減っていたが、《百度石》と彫られているのが読める。近づいてみると、そこから斜め左に向かって土が踏み固められたような細い道が続いている。

道の先は右に折れ曲がっていて、ここからは見通せなかった。長い間訪れていなかったので記憶が不確かになっていたが、ここが登り口と見て間違いないようだ。

もう一度、大きく深呼吸をする。私は百度石の手前で一礼をすると、べらの社へ続く道へ分け入った。

木々に日が遮られた、そのためだけとは思えないほどに、やにわにひやりと温度が下がった気がした。

緩やかな傾斜の獣道を、何度折り返しただろうか。

腕時計の針は午後の四時を指している。お山に登り始めてから四十分ほどが経過していた。

葉陰から差し込む光のおかげで、森の中は思っていたより明るかった。お山へ入るまでは不穏な雰囲気を感じて緊張していたが、山道を登るうちに運動不足の私は太ももの筋肉が張って痛み出し、何かを感じるどころではなくなっていた。

時折、罠のように木の枝からぶら下がっている毛虫の方がよほど脅威だった。

社までは子供の足でも一時間程度だ。同じような光景が続く九十九(つづら)折(おれ)の道では自分がどの辺りを歩いているか分からないが、そろそろ目的地は近いはずだった。

曲がり角のところで立ち止まり、手ぬぐいで汗を拭くと伯父の家から持ってきた水筒の水を飲む。沢水を沸かしたものだそうだが、普段飲んでいるミネラルウォーターより味が丸く、ほのかな甘みがあった。

ぶん、と耳元で羽音が聞こえ、首をすくめる。

蜂かと思ったが、見ると丸っこい腹の大きな蝿が、頭の上を飛んでいた。

蝿は道の先にある、蔓(つる)が巻きついた白樫(しらかし)の木にとまった。先にいた蝿と縄張り争いにでもなったのか、ぶぶぶと羽音を立てながら二匹が縺(もつ)れ合う。

また顔の近くで大きな羽音がした。思わず持っていた手ぬぐいで払うと、ごく小さな衝撃があり、足元にぎらぎら光る巨大な銀蝿が落ちた。

蝿の尻から、細かく切られたそうめんのような蛆(うじ)が溢れ出す。思わず手ぬぐいを放り捨て口元を押さえた。

銀蝿の死骸を避けて進む。白樫の木には蝿だけでなく、びっしりと蟻がついていた。

どこからか傷んだ肉のような匂いが漂ってくる。視線を上にやると幹の中ほど、地面から三メートルくらいの位置に、細い棒のようなものが何本も突き出ている。

目を細めてよく見ると、どうやら釘が打ち込まれているらしかった。錆びついた古い釘もあれば、まだ新しいと見えるものもある。新しい釘から、まばらに毛の生えたピンポン玉ほどの黒い塊が垂れ下がっていて、その周りに何匹もの蝿が飛び交っていた。

蝉の声が、いつの間にか止んでいた。
首の後ろだけでなく、二の腕や頬、そして背中に、ちりちりとした感触があった。
膝が震え始める。足元が、ぐらりと揺れたように思えた。

いけない。

私はすぐにでも山を降りたかった。だがその時、微(かす)かな声がした。

「だあれ」

女の細い声は、遠くから聞こえているような、耳元で囁かれたような、距離感の分からないおかしな響きだった。

「お姉ちゃんなの」

森の奥にそう声をかけながら、私は残りの獣道を駆け上った。

べらの社は、子供の頃に見た記憶よりもずいぶん小さかった。
高さは二メートルを少し越えるくらい。
五〇センチほどに石が積まれた土台の上に、古びた木造の社が建っていて、それ自体は半畳あるかないかの大きさだった。

積雪に耐えるためだろう。こういったものには珍しく屋根は銅板葺きで、雨で錆が流れたものか梁の木がところどころ青緑になっている。

手前の二本の柱にかけられた注連縄はあちこちから藁が飛び出し、茶色の染みの浮いた紙(かみ)垂(しで)はどれも破れていた。注連縄の下には賽銭箱と思しき黒ずんだ木箱が置かれている。

姉が座っていたのは、その木箱の手前に設えられた石段の上だった。

「お姉ちゃん、会いにきたんだよ」

息を整えながらやっとのことで言うと、姉は顔を上げた。

最後に裁判所で会った時よりも少し痩せて見えたが、ほくろのない赤ん坊のようにきめ細かな頬も、それと対照的な肉感的で色の濃い唇も、以前と変わらなかった。

肩口で切り揃えていた髪はずいぶん伸びて、胸元にふっさりと垂れている。姉は真っ黒な目でじっと私の顔を見た。
表情はなく、薄く開いた口の脇には唾液が乾いたものか、白い汚れがこびりついていた。

毎日お山に登っているはずなのに、顔も、花柄のワンピースの裾から投げ出したように伸びた足も、透き通るように青白かった。

「ここでいつも何してるの」

姉の前まで進み、顔を覗き込むようにして柔らかく尋ねる。

その異様な佇まいに胸騒ぎを覚えたが、目の前にいるのは確かに私の姉だった。
姉は私の質問には答えず、首から上だけを社の方へ振り向けた。
ぎりぎりと頭を捻じって、ぴったりと閉じられた社の扉を凝視している。

そこに、何かがいるみたいに。

「ねえ」

血の引くような焦りと不安に、思わず姉の肩を掴んだ。
姉の体は固く強張っていて、揺すろうとしてもぴくりとも動かなかった。
首筋の血管がぼこぼこと瘤(こぶ)のように青く浮き出ている。

「べら様がおっしゃるごどには」

痰が絡んだような割れた声で、姉は突然にしゃべり出した。
姉の顔が、ゆっくりとこちらに向く。

結膜下の出血か、左目の白目の部分が真っ赤になっていて、私は引き攣(つ)れた声を上げた。
姉は立ち上がり、赤い目で宙を睨みながら、さっき私が登ってきた獣道の方へと歩いていく。

森の手前で足を止めると、だらりと下がっていた腕を静かに持ち上げた。
姉の手は真っ直ぐに、集落の方向を指差していた。

「あの家(え)のわらしは、膨(ふく)れて死ぬぞ」

しわがれた、しかし妙にくっきりとした声でそう言うと、姉は力が抜けたように目を薄く閉じて、その場に座り込んだ。

駆け寄って、肩を揺する。
うつむいたままの姉の頭がぐらぐら振れて、よだれが糸のように垂れた。

「どういう意味なの」

返事はないと思いながらも、聞かずにはいられなかった。
姉の言葉を反芻する。
凄まじい不安が込み上げてきて、吐きそうになった。
耳鳴りがして、こめかみがどくどくと脈打って、頭を抱えるようにしてその場に膝をついた。

集落の七歳の子供が行方不明になったあと、用水池の底でぱんぱんに水を吸った死体となって見つかったのは、それから四日後のことだった。

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