人工化された自然


最近、無添加とか、無農薬とか、そういうのが流行っている。
SDGsもそうだし、サスティナブルとか、環境保護とか、時代の流れなのだろう。

言っていることはとても賛同するが、さっそく以て形骸化しているのも事実だ。
そう言っておけば大丈夫、という空気が出来上がっている。
それはあまり好きではない。


人工化された自然。
とはなんだろうか。
我々が求めているものだろうか。


食品添加物や農薬の危険性が指摘されている。
確かにそうなのだろう。

だが、ここでひとつ考えたいのは、何事も、自然であることがいいことなのだろうか?


そもそも、添加物や農薬の発祥として、人口が増え、食料が不足し、需要に供給が追い付かないという背景があるはずで、長く保存でき、安全に食べられることを求めて、人は添加物や農薬を開発した。はずである。
(歴史的な知識はないので、あくまで想像であるが)


現在も、多くの人がスーパーで、それなりに買いやすい価格で、野菜やお肉が買えるのは、そのおかげであることを否定はできないだろう。


過剰に危険な農薬や添加物の使用、あまりにも非人道的な家畜の扱いなどは批判されてしかるべきだが、そのネガティブな側面だけを取り上げて、無添加!無農薬!と称揚するのは、同じくらい危険だと個人的には思う。


そういった、人の不安につけこんで生まれてきた新たなビジネスモデルという面も少なからずあるだろうし、現に高価なのだ。


生産者の生活を守る、といった面から見れば、無農薬農家の人たちは農業を生業としている人の中ではかなり少数で、生産数も限られているので、値段がある程度高くなるのは、この資本主義社会で生きていくには致し方ないことなのだが、無添加・無農薬のものを食べ続けるには、ある程度の所得が必要不可欠で、買えるのは少数の人間だけなのである。


ほとんどの人は、格安スーパーで、なるべく安く抑えて、家計をやりくりしなければ、生活が破綻するのだ。
そこには日本や世界情勢の経済的な背景があり、今すぐどうこうできることではなく、政治家と一緒に我々も考えていかなければならない問題なのだが、毎日働いて、生活するだけで我々は精いっぱいで、そんな余裕もないのが現実の一側面なのである。


かつて、マリー・アントワネットが言った「パンがなければケーキを食べればいい」ということばは有名だが、無添加・無農薬の食品は、すでにそういったものになりつつある。
これは誰が悪いとか、一部の富裕層のためのものになっているとか、そういう単純な話ではなく、いろんなものが絡まり合い、起きている問題なのである。
無農薬農家の人が悪いとか、富裕層向けのビジネスだ、とかそういうことが言いたいのではない。
ぼくもそういったものは食べるし、確かにめちゃくちゃ美味しいので、なくなってほしいとは思わない。農家の人もめちゃくちゃ頑張っている。できれば、色んな人が、手軽にそういったものを手に取ることができ、食の楽しさや豊かさを感じられる世の中になればいい、という気持ちもある。
ただ、現状として、そんなに頻繁に食べられるものではないし、日本の全人口がそれを日常的に口にしようと思えば、圧倒的に敷地が足りないし、日本だけで賄える話ではないので、やはり格安スーパーも必要だし、添加物も農薬も、ある一定は必要なのである。


本当に、自然のものが体によく、添加物や農薬が悪い、といったシンプルな構造ならば、人はその辺の山に生えているきのこや野菜を食べているだろう。

農薬を使用した野菜も、無農薬の野菜も、根本は人がコントロールを加えて得られるものであって、完全に自然とは言えない。
それは、我々が自然だと思っているもの全てについて言えるだろう。


環境破壊が悪いと言ったって、すべての植物や動物をそのまま野放しにしていれば、きっと我々は地球に住めなくなる。


つまり、我々は、自分たちに都合の良い自然を求めているのであって、本当の自然を求めているわけではない。人類が繫栄するために、我々は自然を手懐けようとし、支配しようとしている。

しかし、自然の側も馬鹿ではないので、自分たちが消滅させられないように、ありとあらゆる手を使って、人間の側を飼いならし、自分たちが長く繁栄するように仕掛けている。

いつの時代も、双方の綱の引き合いなのである。



自然なもの VS 人工的なもの

という対立だけがあるのではなく、お互いにお互いを必要とするような関係であることを理解するのは大切なように思う。

我々が求めているのは、本当の自然ではなく人工的な自然であり、自分たちに危害を加えず、心地よく過ごせるような自然なのであり、それは別に良い悪いとか、本当の自然があるかないかとか、そういう話でもない。


それがいい場合もあれば、よくない場合もあり、常にバランスを保つように、揺れ動き続けるシーソーなのである。

そして、そのシーソーの真ん中に立ち、それをコントロールできるわけもなく、右往左往しながらシーソーの上を転がる球体が、我々自身でもあるのだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?