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「コーヒーを囲む会」について


先日、形式を変えて実施ました。
以前の、色んな豆を飲み比べるかたちから、一杯のコーヒーを飲みながらゆったり話すかたちへ。

結果的に、とてもよかったです。
今後はこの形式でいこうと思います。

哲学カフェを実践されている山本さんもいらしてくださって、とても素敵な時間を過ごせたかな、と。


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”人と話す”機会って、あるようで意外とない。
いわゆる対話というもので、おしゃべりとはまた違う。

ぼくは、基本的におしゃべりは苦手で。
3人くらいまでならまだしも、4人5人・・・と増えてくると、もうダメ。
これは物心ついた時からずっと。

何がダメかというと、会話のテンポについていけなくなるし、役割も読めないし、人が増えればその分共通項が限られてくるから最大公約数的な話になってくる。

なので、基本的にニコニコ話は聞くけど会話には入らない(入れない)し、ぼくはそれで楽しかったのだけれど、話している人たちからすればやはり気を遣うようで、定期的に声をかけてもらったり、話を振ってもらえたりもするのだが、うまく話せないので、結果また、ぼくは傍聴席へと戻っていく。
話を振られたときは、さながら被告人のような気持ちだった。
それくらい何を話せばいいのか、本当にわからなかった。

今思えば、一緒にいる方からすればめちゃくちゃめんどくさい人間なのだが、当時はまだ孤独を満喫できるほど好きなこともわからなかったし、「それ(孤独)でいいのだ」と思えるほど余裕もなかった。
話を合わせて、求められた役割をこなし、輪に入る。
それが、生きていく上での僕の課題だと信じ込んでいた。


今でこそ、自分の話をできるのは、環境(人)による部分がほとんどなのだが、それでもやっぱり話すのはたどたどしいし、うまいやり取りもできない。
レストランで「これを頼むぞ」と心に決めても、いざ定員さんを呼ぶと喉がつっかえてどもってしまうことは多々で、結局言えずに別の商品を注文することもある。


そんなぼくが、なぜわざわざ人と話す機会を作ろうとしているかと言うと、人と話すことはとても楽しいからだ。おしゃべりとは違う楽しさ。

ぼくは、人の話を聞くこと、考えを知ることはとても好きで、読書もその延長線上にある営み。映画も音楽も絵も。


話すこと、対話、コミュニケーション。
本も映画も音楽も、常に出逢い直すことであり、新たな出逢いの連続であり、出逢いという即興のことを、ぼくは総じて”話す”ことだと捉えている。

それは不安定で、形がなく、脆弱で、掴みどころのない、どこまでいっても実体がないもの。

柔らかく、刺激的で、深海へ潜るときもあれば、そこから見える水越しの光のようなもの。


”話す”とは、どういうことだろうか。
ぼくにもわからない。
でも、出逢うことはできるかもしれない。
目の前の人と、自分の中の他者と、そこに居る人たちと。
何度でも、何度でも。

それには苦痛や辛辣が伴うかもしれないけれど、一緒に考えることで、一緒に色んな考え方や価値観に触れながら、わからなさを共有しながら、問いを立て続けることはできるかもしれない。


その中で、僕は色んなものに出逢いたい。
それは人かもしれないし、そうじゃないかもしれない。
まだ、何かもわからないものに出逢うこと。
それはひとりではできない。


(哲学)対話というと、難しい話を想像するかもしれない。
「自由とは何か?」とか、「生きるとは何か?」とか。
もちろんそういうことを考えるのも面白いのだが、
ぼくの想像する対話というのは、もっと日常的で、世俗的なものだ。


日々生きている中で浮上してくる疑問。
生活の中の難しさ。
もう少しこういう風になったら・・・という悩み。
ふっと湧き上がってくる、まだ名前のない感情。


そういったものを、みんなで出し合い、
ああでもないこうでもない…と考え続ける。


聴くだけでもいいし、質問するだけでもいい。
声にしなくても、ことばにならなくても、
自分の中で考え、なんとか自分のことばとして
捻りだそうとすることは、尊いものだと思う。


そういった時間・空間を、ぼくは体験したい。
そのスパイスとして、コーヒーがあるのかもしれない。
と思う。
そういうコーヒーも、アリだと思う。


ということで、引き続きやっていきたいと思います。
よろしくどうぞ。



山﨑








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