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書斎を手にとる #8月31日の夜に

特に何か理由があったわけではない。

ただ、ある日俺は決断した。学校に行かないと。

◆◆◆

あれは中学2年の夏だった。

その決断直前に猛暑日のニュースを何度か見たし、教室はひどく蒸れた。暑さに対するストレスはあったが、それが原因でもない。

その決断にはじめ気付いたのは姉ちゃん、2日目のことだ。

「あんたさあ昨日から休んでさ、熱あるわけじゃないんでしょ?明日は行きなよ」

ジャージにショルダーバッグを背負った姉ちゃんは、日がとっぷり暮れてからドタドタと帰ってくる。ひっつめ頭でポニーテールを結い、汗と制汗剤が混ざった複雑な匂いをリビングに振りまく。

姉ちゃんはいわゆるJKだが、その響きとはかけ離れた筋肉質な体を、規則正しく着た制服のなかにギチギチに収めている。

次に気付いたのは母さん、5日目のことだ。

「来週は復帰しないとね。その前に病院行ったほうがいい?そういえばどこが悪いの?」

平日はパートのレジ打ちで忙しい母さんは、帰って目まぐるしいスピードで夕飯を作り、夜遅くスマートフォンで日記か何かを書き、誰よりも早く起きて弁当やら何やらを仕込んで、またパートに向かう。

俺が休んでいることは、自分の休日まで認識の外にあったらしい。認識の内側に入ってきた途端、それは処理しなければならないタスクと化したのだろう。

「ちゃんと学校には自分で連絡した?宿題は?色々大丈夫?」

「母さん意味ない、こいつ仮病だよ!」

土日も返上で部活に行く姉ちゃんは、そう吐き捨ててやはり騒がしく出ていく。無遅刻無欠席で表彰された過去を持ち、今は部活のリーダーか何かをしているらしい。

「ええ?ちょっと……なんで?なんかあったの?学校で」

自分の範疇を越えたタスクになると、母さんは突然逃げ腰になる。そうして、ソファに座って新聞を読む親父のほうを横目で確認する。親父はボーダー柄のパジャマのまま、ぼうっと紙面に目を落としているだけだ。

「別に」

俺はそう答えた。

小学生から着ているよれよれのロゴTシャツに身を包み、ほこりっぽいレースカーテンから差し込むおだやかな土曜日の朝日を拝む。その柔らかさは、いつまでも続く幸福の象徴のようだ。

◆◆◆

学校に行かなくなってから、階下の話し声や物音に敏感になった。

俺が2階の自室にこもってプレイし続けたスマホゲームのランクが100にたどり着く頃、担任から電話が入った。台所の音をかき消すように、電子音が鳴る。

水道を止めた母さんはその電話を取り、困った声で「ええ」とか「はい」とか重ね、「夏休み前には登校させるので」と何度も繰り返す。

そういう音に耳をそばだてながら、俺はなんとなく性器を弄んだりして、パンツの中に手を突っ込んだまま、死について考えた。

きっと死というのは、生の裏ではなく隣にあって、自然にそっちに重心を傾けていくようなものなのだ。そのグラデーションは極めて淡く、目をこらさなければわからない。いつのまにか“死”。そういう感じ。

「慎二、ごはん。食べる?」

ドアの向こうから遠慮がちな母さんの声が響いたら、礼儀正しくテーブルに向かう。生の方向に自分を戻すための、おいしいごはんをいただく。

このルーティンがもしなかったとすれば、俺の人生はまた全く違ったと、今ならわかる。

姉ちゃんは部活仲間と夕飯、親父は残業。今日も母さんと2人きりの食事だ。会話はない。

夕食中に、また電話が鳴った。電話番号を見て、「また学校から…」と母さんは泣きそうな声を上げる。

「はい、三島です……え?あ、はい、お世話になっています……ええ……はあ」

意外なことに、母さんは俺に受話器を渡す。

「あんたと話したいって……部活の顧問の先生」

おや、それは意外だ。俺はつばを飲んだ。

俺の通う中学校は全員部活に入部することが強制されており、俺はできる限り楽な部活を必死で探した。

スポーツ系は論外、集団行動が求められそうなブラスバンド部や合唱部もNG、大会で好成績を収めた書道部もヤバそうだ……そうやって消去して、最後に残ったのが美術部だった。

絵はまあまあ好きだが、俺はほとんど部活動に参加していない。顧問は気弱そうな若い女教師(授業担当でもないので名前すら覚えていない)だったし、1年以上幽霊部員状態でも何も言われなかったから、今回も反応はないはず、と踏んだのだが。

受話器を受け取り、うめきのような「もしもし」を発すると、「学校にはもう2度と来ないの?」と、予想外の質問が一本槍のように飛んできた。

「え?いや…2度と、ってわけでは…」

「あ、その程度か。なら良かった」

なんだこいつ。俺は眉をしかめた。想像していたタイプの教師と違う。俺の決断を“その程度”と言ったことにイライラする。

「美術部の夏休みの課題を伝えるために電話しました」

「はあ」

「夏休み明けに、何かひとつでも作品を提出すること。形式は問いません」

「なんでまた…俺、幽霊部員なのに」

「幽霊は実態がないのだから、何かしらの現象を起こさなければ定義すらできません」

正論だ。じゃあ、俺は何だ。無か。喉の奥で呻く。

「作品提出がなかった場合は、あなたを幽霊部員として認めません。すなわち、一般の部員として夏休み以降活動への参加を強制します」

面倒くさい。だが、俺がほとんどの教師に感じた頭の悪さとは違った面倒くささだ。スルーという対処方法が効かない気がする。

「わかりました、なんでもいいんですよね」

「ええ、なんでも。芸術の領域は広いですから」

俺は釈然としないまま電話を切った。母さんは「先生、なんだって?」とやたら訊いてきたが、あいまいな返事で流した。なんでもいいと言われたんだから、適当にノートに絵でも描いて渡そう。それで、あの教師の反応を見てみたい。悔しがるか、呆れるか、怒るか……。

◆◆◆

明くる日の0時ごろ、ひそめてもひそめきれない母さんの声が階下から聞こえてきた。

「このまま不登校になっちゃったら、私どうしたらいいのか……」

別に母さんがどうすることもないだろうよ。俺は鼻で笑う。

リビングの足音や夕飯をレンジでチンする音から察するに、仕事帰りの親父にそうやって泣きついているのだろう。

「……もう、学校、夏休みか」

久々に親父がちゃんと話す声を聞いた。いつ頃からか、残業ばかりの親父は顔すら見る機会がないし、休日と言えば黙って新聞や本を読んでいるから、会話などまるで発生しない。

「お父さんのところに、行かせたらどうだ」

母さんの息を呑む音が、盛大に2階まで響き渡る。

「ちょっと…あそこ行くのに飛行機いくらかかると思ってるの!夏休みなんて一番高いシーズンじゃない…!しかも私だってあなただって休みなんて1日も取れないでしょう、香織だって部活あるし……」

「一人で行かせればいいんじゃないか、慎二に」

「ええ!?慎二が一人であんな長旅できると思う!?」

俺を何歳だと思ってるんだクソババァ。今すぐにでも階下に反論に行きたい気持ちを抑えながら、耳をそばだてる。

「できるだろう、もう中学2年生だ」

「でも、なんでまた、義父さんのところ……行ったって、迷惑がられるだけでしょう、私たちだって、年末年始もお盆も来なくていいって、さんざん言われてるんだから」

「……いい気分転換になるんじゃないか、あそこは風景がきれいだから……」

母さんはそのあともグズグズといろんな理由を引き出しては親父の意見を曲げようとしたが、小一時間話しても親父は譲らなかった。

次の日、母さんは全く気乗りしない声で「あのね慎二、夏休みのあいだに、北海道のおじいちゃんの家、行く?一人で」と提案してきた。

俺は二つ返事でその提案を請けた。母さんは、口をあんぐり開けて、何かに裏切られたように目を震わせた。ざまあみやがれと思いながら、俺の夏休みが始まる。

◆◆◆

飛行機で1時間40分、そこから電車で1時間、バスで3時間かけてようやく祖父が住むエリアにたどり着いた。ここから更に、ローカル線のバスに乗って1時間以上揺られ、徒歩30分の行程の先に、祖父の家はあるらしい。

座りっぱなしで痛くなった腰を押しながらバスから降りれば、まるで初秋のような涼しい風がおでこを撫でていった。何色もの緑がボーダー状に広がり、地平線まで続いている。

絵本で描かれたような安易な白い雲が浮かぶ、何一つ汚れのない青い空。

確かに、この風景を見るためだけに来たって悪くはない。旅ってのは、いいねえ。俺は深呼吸をして、エナメルバッグを背負い直した。

何着かの私服と下着、ほとんど使われていないヘアワックス、スマートフォンと充電器を入れて来たが、この地でいったい何をして夏休みを過ごせばよいのか、いざ来てみると不安になってきた。

まあ、いいか。自宅にいたって、スマホ以外何も使ってないわけだし。

更に奥地へ向かうバスは舗装の悪い道路も多かったからか、やや酔った。せっかく孫が来るというのに、迎えに来てくれない祖父はひどいやつだと思う。

俺と祖父との間には、ほとんど接点がない。小さいころ、たった一度だけ家族でこの地に足を運んだことがあるようだが、記憶がない。

祖母は俺が物心つく前に他界してしまったし、たった一人の祖父のために大金と膨大な時間を使うという選択は、どうやらうちの家族にはないようだ。

しかし、いや、だからこそ、かわいい孫との再会は喜びもひとしおなのではないか!?もしかして、照れて迎えに来られなかったのか?

感動の再会シーンを何パターンも想像し、それにどう対応するかシミュレーションしながら向かった道中、日はやや傾いている。

周りは緑ばかりで、ぽつりぽつりと家が立つほか、なんの障害物もない。バス以外の車すら通らない道のり、聞こえるのは虫の音と、何かが風に煽られてバタバタとはためく音だけ。

やがて、指示された場所、煤けた赤の屋根の古い一軒家が見えてきた。

ヒビの入った壺やら土のついたシャベルやらが規則性なく放置された正門を通り、旧式のインターフォンを鳴らすと、すぐに輪郭がしっかりした無表情がヌッと現れた。

「ほう。大きくなったね。いらっしゃい」

想像していたよりもずっと若く、ハキハキした声で祖父は言った。皮膚もハリがあるし、目がきらきらしている。へたしたら親父より若い。ただ、年齢を重ねていることはすぐに理解できる。まるで、少年が爺の皮だけ借りたような違和感。

「あ…よ…ろしくお願いします」

「2階に荷物を置いたら夕飯を食べよう」

二言めはそれだった。玄関の置物たちはホコリをかぶり、覗いたリビングには、茶色い米、漬物、味噌汁、野菜炒めらしきものが少しずつ、二人分よそわれていた。

なんというか、今日俺が来るということへの特別感が、全く感じられない。

腰も曲がっていなければ、杖もついていない祖父は、淡々と階段を上り、突き当りの部屋を俺に示した。

「容子さん…君にとってのお祖母さんの部屋だ。使いなさい」

古時計がコチ、コチと重たい音を刻む小さな部屋には、古いがふかふかの布団が敷かれている。テーブルの上には、スケッチブックやパステルが雑然と置かれており、肘掛け椅子にはラベンダー色のカーデガンがかかっていた。

夕飯の卓についても、驚くほど祖父は平然としていた。この家のリビングにテレビはないようで、逃げ場がない。

「いただきます」とつぶやいて食べ始めたものの、自分の咀嚼音が気になる。それに、俺が好きな揚げ物や肉のメニューが全くないから箸が進まない。

祖父は何も喋らない。この沈黙を、何とも思っていないようだ。パクパクと平均的なスピードで野菜炒めとご飯を往復している。

「あ…の、お久しぶりです」

「ああ、久しぶりだね。中学二年生だったか」

「はい」

終わった。むしろ、なぜ俺が話題を作ろうと苦労しなければならないのか。この状況に、いささか苛立ちすら感じてきた。

「俺、ちょっと前に学校行かないって決めたんですよ。だからこの家に送還されたんです」

これは、何をどうあがいても話を続けなければいけないボールのはずだ。それにこの年齢の人間が不登校に対してどういう反応をするのか気になった。

「…そうか。それは大変だったね」

えええ……。そのあとの沈黙に対して、俺は背骨が抜けるような脱力感に襲われる。

「それだけっすか」

「それだけって?感想かい?……学校に行かないという選択肢は、この社会において合理的に考えれば難しい選択を取ったな、と私は感心する。難儀な道だよ、それは。私の家に来て君の役に立つかどうか、私にはわからないが」

あまりにすらすらとよどみなく返されたもので、しばし俺はその言葉を咀嚼した。とりあえず、この人は俺の決断を否定しないらしい。

「ん?違うか、もしかして何かの相談をするための冒頭だったのかい?であれば、老人のわかる範囲で答えるから具体的な経緯を教えてもらおう」

そこまで聞いて、俺はなんだか笑ってしまった。無表情のままハキハキと選択肢をつぶしていく姿は、まるで人工知能の入ったロボットみたいだから、滑稽だったのだ。

「別にそういうわけじゃないです、ありがとうございます」

祖父は頷き、また食事に没頭しはじめた。

「強いて言うなら、姉ちゃんと母さんがうるさいっすね。俺が学校行かないことを犯罪みたいに言って、それでいて俺の意見は聞こうとしません。悩みって言えば、それかなあ」

ご飯がなくなりかけた頃、俺は独り言と同じくらいの気持ちでそうつぶやいた。それまでずっと、本音を言おうかどうか悩みながら漬物をかみ続けていた。

「人の“幸せ”の定義はそれぞれだが、家族は本能的あるいは義務的に身内の“幸せ”を願う。それがコンフリクトの原因だろう。家族と言えど他人だ。他人の幸福などわからないから、世間の幸福の基準で他人の幸福を推し量り、強制する。慎二、君の受難は、それだ」

空いた皿をきれいに片付けながらしゃんとした背筋で答えた祖父を、俺はじっと見つめた。俺は、珍しく他人に好意を持った。

「なるほど…ごちそうさまです」

「皿は自分で片付けなさい」

「あっ…はい」

言われた通り、シンクで皿を洗った。実家ではやったことのない流れでまごついたが、祖父はそれこそ、研修トレーニングのロボットかのごとく、わかりやすく順序を説明する。

導かれた風呂は深く、タイルの色がどこか北欧の国を思わせた。ハッカの香りが体をまとう。熱い湯船のなかで、祖父の言葉を何度も繰り返す。

ほんのりとラベンダーの香りがする布団にくるまると、眠りの世界へ誘われた。この布団で眠った祖母は、あの祖父と暮らして、きっと幸せだっただろうと、想像しながら。

◆◆◆

「書斎だ」

次の日から早くも時間を持て余した俺を、祖父は廊下の逆側の部屋に連れてきて言った。

床から天井まで、全方位の壁に取り付けられた本棚には、今にも零れ落ちそうな量の本が並べられ、ところどころパタンと倒れ、また時に山になって積まれていた。

中央には深い色をした木彫の机が置かれ、その上だけはスタンドライト以外何もない。何か、修行僧が瞑想する和室のような静謐さがある。

「すごいっすね…いっぱい」

「これでも整理したほうだよ。それよりも」

祖父は上の棚からマンガをごっそりと引き出し、俺に手渡した。

「もし興味があったら、どうかな。好きなマンガなんだ」

福本伸行『カイジ』。なんかこれ、Twitterでパロディのネタになっているやつじゃないか?

俺はそれを受け取りつつ、他のラインナップを一瞥する。

ドストエフスキー、宮沢賢治、太宰治あたりは授業で何となしに耳にしたから目が止まる。あと、マンガだとしても手塚治虫や宮崎駿の大判があるではないか。ほかは聞いたことも見たこともない名前ばかり。

なぜこの本棚から選ばれたのが福本伸行なんだ。いや、福本伸行に失礼かもしれないが。

「これは、私がもしも中学生の頃に出会えたら、一番読みたかった本だ」

祖父は神妙な面持ちで、俺の不審そうな目にアンサーを送る。

「純粋に面白いというだけで推せる作品は、そうないんだよ」

やっぱり、笑ってしまう。そんな厳かな雰囲気で語られる作品とは到底思えない。

俺はその日、本棚にある分のカイジを読破した。そして、昨日と代わり映えのない質素な食事を摂りながら、自分がカイジと同じ人生を送らないためにどうするか祖父と議論した。祖父は利根川という登場人物と日本社会の構造について熱く語った。

内容を読んでわかったが、祖父は俺を子供扱いしたからマンガを選んだわけではないようだ。次の日から、俺は自分で書斎の本を選び、食事中にその内容について議論することにした。

数日間、雲が山に降りてきて、力強い雨が振り続けた。同じ風景など一日もないということを、煙る緑の配色を観察しながら理解する。

ここの日々は、時計が狂ったように早い一方、ぴたりと止まっているようにも感じる。

相変わらず祖母の部屋の古時計は重たくコチ、コチと動いているので、きっと時間は流れていた。

何冊かマンガを手に取り、また、何冊かの小説を読んだ。散歩に行き、何一つ目印となる建物を発見できぬまま、折り返し一本道を戻ってくる。

祖父が車でマーケットに連れていってくれたこともあった。

「車あったんですね」

「ないと生活できないからね。ただし身体的な機能はずいぶん落ちているから、運転は最低限にしている。老齢者の交通事故問題は深刻だから」

そんな会話を車中で交わし、ここに来る前に「迎えに来ないなんて」と嘆いていた俺は、ずいぶんと浅はかだったと反省する。

ずいぶんと年季の入ったセダンだったが、乗り心地は良い。開け放した窓からは、ひんやりと乾いた風が吹き込んだ。

その風が一瞬、音を運ぶ。

「歌」

反射的に俺が口に出すと、おもむろに祖父は次の道で左折し、祖父の近所よりは少しばかり住宅の連なるエリアへと入った。

その歌声は、風向きによって消えつ聞こえつ、少しずつ近づいてくる。

車は、駱駝色の四角いブロックを重ねたような無骨な学校の前に止まった。その階上の開けられた窓から、合唱の歌声が響き渡っている。

美しかった。

太く揺るぎのない、あたたかなベースラインと、教会に降り立った精霊のような高音。それらはしっかりと抱き合って、聞いているこちらからは一つの音にしか聞こえない。

「慎二と同じ年頃の子らだろう。コンクールで優勝したと、回覧板で見たな」

俺はしばらく、学校に向き合い立ちすくんで、その歌声を聴いていた。顧問の指示で止まることもあったが、いくらでも聴いていられた。

俺が通らないと決めた門の向こうで、コチ、コチと、時間が流れている。

「夏休みなのに、なんで」

「夏休みだから、練習するのだろう。休みとは、そういうものだから」

自分の胸の中で何かがさざなみを立て、歌はクライマックスへ向けて走る。この時、一筋の涙が流れたことを、俺はその後の人生で何度か思い出す。

◆◆◆

久々に着信バイブが鳴った携帯電話。

番号の頭の数字で、学校から電話がかかってきたとすぐわかった。出るかどうか悩んだが、ここで無視したからといって何かが変わるわけではない。

通話ボタンを押す。

「元気?北海道にいるそうね、いい場所でしょう」

美術部の顧問だった。毎度のこと第一声が唐突だ。

「あと一週間くらいで学校が始まるけれど、課題の進捗はいかが?」

「あ」

俺は素っ頓狂な声を上げて、口をつぐんだ。あまりにもこちらの日々が豊かすぎて、約束事などすっかり忘れていたのだ。

「忘れていたのね?よかった電話して。…はい、周りに美しいものはありましたか?あるでしょうね、たくさん」

俺はまず、あの学校から響き渡った歌声を脳内で響き渡らせ、その次に祖父の瞳を思い出した。それらは混じり合い、夢幻のような大きな空に溶けていく。

「ありますね」

心に描いたイメージは抽象的だが、俺はずいぶんとはっきりした声で答えた。

「なら、それを教えてください。きっと私の知らない世界だから」

その電話を切ってすぐ、書斎で読書中の祖父のもとに向かった。祖父ははじめぼうっとした目をしたが、すぐにこちらの世界に戻ってきて、話を聞く体制を取る。

「何か、作品を作りたいんです。何でもいいんですけど」

「そんな難しい課題をやるのか…顧問の先生、なかなかやるな。芸術の領域は広いからなあ」

祖父は大きく唸り、腕を組む。そういえば、夏休み前に顧問も同じことを言っていた。

「おばあちゃん……が、使っていた、パステルを使ってもいいですか?」

俺は毎晩、眠る前に机の上の色とりどりのパステルを見ていた。それはまるで、昨晩まで誰かが何かの絵を描こうとワクワクし、どの色が良いだろうと模索していたかのような配置だ。

俺はおばあちゃんの面影を正直全く覚えていないが、何故か祖父は“おじいちゃん”と呼びかけることができず、祖母は“おばあちゃん”とすんなり呼べた。多分、故人はそういう人柄だったんだろう。

「んん……いい……いや……」

ここに滞在して初めて、祖父は歯切れが悪い。祖父が心内でどんな問答を繰り返しているのか想像はできなかったが、祖母が祖父にとって大切な存在であることは、一瞬光った瞳の震えだけで十分理解できた。

「やっぱいいです。じゃあ…あれは?」

書棚の隙間でホコリを被ってそっと息を潜めていたカメラを指差す。

「使ってくれ」

祖父は即答し、丁寧にホコリを払った。それはフィルムカメラと呼ばれるものらしく、引き出しの奥にあったいくつかのフィルムのパッケージを、祖父は「全て使い切って構わない」と俺に渡した。フィルムカメラの使い方も、やはり皿洗いのように丁寧に、端的に教えてくれる。

「もう撮らないんですか?」

「うん。これは容子さん…君のお祖母さんを撮るために買ったものだったから。もう使わないよ」

節くれだった指でそっとシャッターボタンを撫で、祖父は小さくうなずいた。

「ありがとう、“おじいちゃん”」

俺は初めて、祖父に対して呼びかけた。祖父は柔らかく目を細め、どういたしまして、とつぶやく。

◆◆◆

その後、帰るまでの日々は激流のように過ぎ去った。

往復1時間以上かかる道のりを車に乗せてもらい、何度もさびれた繁華街にある写真屋に現像を頼みに行った。

「いかんいかん、これじゃあ光が入りすぎている」「ピントが合ってない」など、きれいなバーコードを頭になでつけたまんじゅうみたいな店長は、いちいち他人の写真に説教を入れる。暇だから話が長い。

最初こそ苛立ったものの、そのレクチャーは俺の腕を確実に上達させ、フィルムのパッケージが残り数本にもなる頃には、店長はゆっくりと、「んむ」とうなずいた。

「また現像しに来ますね」

滞在最終日、深く礼をしてそう伝えると、店長はまばたきを素早く数回して、「おう」と背中を向けた。祖父はにこりと笑って車のドアを開ける。

写真屋からの帰り道、一層明るく、色めきたった一面の緑が、車をあたたかく祝福するように、両サイドに続いていた。

「モデルになってくれて、ありがとう」

俺はぽつんと、祖父に伝えた。

「こんなにたくさん写真を撮られるのは、なかなか新鮮な体験だった」

ここ数日、祖父はよく笑うようになった。アハハハというぎこちない笑い声だが、おそらく心から楽しいのだろう。

一度も使わなかったワックスと、パキパキに乾いた洋服と、最後の一週間触れることすらなかったスマートフォン、充電器、そして鈍器と言ってもまかり通りそうな写真の束と、フィルムカメラをエナメルバッグに放り込んで、バスに乗り込む。

バス停まで送りに来た祖父は、ふんわりと輪郭を崩し、秋に向かう途中のあいまいな空の中で、微笑んで手を振っていた。

その姿が点になり、やがて見えなくなると、俺は声を殺して膝のなかで泣いた。

◆◆◆

そのあとの俺の人生なんて、別にたいしたものではない。

久々の登校は足が重かったが、教室の奴らは俺が休んでいたことなど忘れ去っていた。たくさんの思い出を重ねて、光り輝く夏の中に彼らは生きたようだ。

だが、構わなかった。俺には俺の夏があった。

職員室で美術部の顧問を訪ねると、俺が思うよりも強い眼光を光らせており、俺がいかにぬるい目で彼女を流し見ていたのかを痛感する。

彼女は俺が差し出した鈍器を解体し、丁寧に1枚ずつ繰っていった。それを彼女が見切るまで、俺は、音楽室から響いてくる合唱の声に耳を傾けていた。

最後の1枚を見終わった顧問は、「コンテストに出そう」と強い声でささやく。「は?」と俺は聞き返す。「これは、いいよ。すごくいい。三島は素晴らしい目を持っている」

顧問は両目を真っ赤にして、どばどばと涙を流しながら、机に散りばめられた祖父の美しい生活に目を落とした。

首をかしげながらいぶかしがっていたが、俺はそのコンテストであっさりと入賞してしまい、冬のある日のホームルームで、少しばかり注目される。

が、それだけだ。中学校の話は、それくらいしかない。顧問だけは俺の写真を絶賛し、俺はその後、何回か入賞した。顧問は、今でも年賀状をやりとりする唯一の相手だ。

それよりも頻繁に、俺は祖父に手紙を送った。祖父からは、必ず一週間以内に返事が来た。

俺は高校に進学して、バイトを始める。理由は2つあった。北海道への旅費、カメラの購入費。

俺にとって教室など仮初の牢屋でしかなく、そう思っている俺にできた友人は一人だけだった。それでも、その一人を今の今も大切にしている俺は、幸せ者だと思う。

やはり俺は祖父に手紙を書き、自分が撮った写真のなかのとっておきの数枚を封筒に入れた。祖父はそれに対してとても長い達筆な返事を書き、ときどきおすすめの本などを丁寧な小包にしてくる。

俺が大学に進学しないと言い出して、母さんは気が狂ったように怒り散らした。俺は目を真っ赤にして、何がなんでもカメラマンになると叫び、親父は今更、本当に今更、俺の顔を凝視するのだった。姉は大学に進学して一人暮らしを始め、もうこの家のことなど忘れている。

俺は、精一杯貯金した口座の残高を見て、考えた。祖父に会うか、カメラか。祖父からもらったフィルムカメラは徐々に精度が落ちてきていて、ちょうど昨日シャッターボタンがいかれてしまったのだ。

毎日、ウィンターシーズンできらめく繁華街のネオンのなかで、ウインドウに並べられる最新の一眼レフカメラを食い入るように見つめていた。今しかない。

その日、レジでそれを受け取ったときの高揚感は忘れない。俺はここ数年で、一番の笑顔を浮かべて帰宅した。母がタンスから黒い服を漁り、俺を睨む。

「おじいちゃん、亡くなったよ」

最後の手紙に返事が来ていなかったのを思い出したのは、その時だ。

◆◆◆

おじいちゃん、元気ですか。

あのとき、俺はあまりに自分が不甲斐なくて、葬式に行けなかった。

ごめんなさい。

両親の金で、この美しいふるさとに戻ってくるのは、嫌だったんだ。

絶対に自分の貯金で来たかった。

馬鹿みたいなプライドだと反省しているよ。

久しぶりに来たここは、あの時と何も変わらないね。

おじいちゃんの遺言は、たしかに受け取った。

ほんの少しの財産や土地はルールに基づき分配して。

けれどあの書斎の本だけは、俺にって。

俺にとっては、最高のプレゼントだよ。

ありがとう。

今日は、その書斎の本を梱包しに来た。

しばらくはここに滞在するよ。

会社はどうしたのかって?すぐ辞めた。

俺も変わらないね。一応、頑張ってはみたんだよ。

人脈も愛想もないフリーのカメラマンなんて、

すぐ野垂れ死ぬと母さんには呪われている。

もしもこの生き方で野垂れ死んだとしても、俺は後悔しないよ。

8月が終わるこの空を、今の俺ならどう撮れるだろう。

見ていてよ。おじいちゃん。




◆あとがき◆

(以下、できれば10代の方のみ読んでいただければ幸いです。)

みなさんに向けたメッセージを集める趣旨の「#8月31日の夜に」というハッシュタグに、なぜ小説をつけたのかって?

ですよね。ここまで読んでくださった方は、「え、で、何が伝えたいの?」と、いぶかしがっているかもしれません。

私は、10代のあなた方に、何かメッセージを伝えられるほど、大層な人間ではないと自覚しています。

ただ、何かしらの悩みや惑いがあるみなさんに、せっかくコミュニケーションを取れる機会をいただけたのなら、何かがしたいなあと思いました。

私が10代の頃の苦い思い出を披露することもできたのですが、「いやあ…これ読まされてもねえ」と首を振ってゴミ箱に捨てました。

あと、この歳になると、嫌なことは忘れています。思い出そうとして気づきました。忘れられるもんなんですね、結構つらかったんですけど。

ところで、ここまで読んでいただいた物語、お好きでしたか?

もし、それなりに好きと思っていただけたなら、きっと、私たち、感性が似ているんだと思います。

いつかどこかで出会ったら、お茶でも一杯、ご一緒したいですね。

今、もしかしたら周りには、あまり感性が合う人がいないかもしれません。あるいは、誰にも打ち明けられない秘密や悩みがあるかもしれません。

けれど、とりあえずわかっていることとして、私たちは、とても話しやすいと思うんです。

だって、自分の心の一部を投影して私が書いたこの物語に、あなたは少しでも何かを感じ取ってくれたんですもん。

ありがとう。


私はあなたに会えるのを楽しみにしています。そう思っているのは、きっと私だけじゃありません。

そういう誰かと、とっておきのお茶を飲める日まで、喉を乾かせておきましょう。

あなたのしあわせを願っています。

宿木

―――――

執筆と写真撮影:宿木雪樹

題名作成:若旦那

イメージソング :「白日」King Gnu / 混声合唱組曲「光る砂漠」より「ふるさと」 萩原英彦

特別に感謝:若旦那(不登校の頃の心情を教えてくれてありがとう)、髙橋みゆきさん(道東の空を見せてくれてありがとう)


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