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青より青く。


海を見たいなあ。

夏梅(なつめ)から深夜にメッセージが届いた。僕は急いでレンタカーを手配し、夏梅に予定を確認する。ここから海までどれくらいの距離があるのか、見当もつかないのに。

まだ日が昇りきらない薄明るい田舎道。青紫の住宅街は、ひっそりと静まり返っている。夏梅の家の近くまで迎えに行くと、すっぴんの夏梅がするりと音もなく助手席に座る。

「久しぶり、けんちゃん。元気?」

春ものの薄手のセーターと、ロングスカート。淡い色に包まれて輪郭すら溶けてしまいそうな夏梅は、にっこりと僕の胸あたりに笑顔を向けて問いかけた。二十二歳には見えない、あまりに幼い笑顔だ。小学生のころから、何一つ変わらない。

「おう」

僕の緊張した返事に満足そうにうなずくと、夏梅はまもなくすやすやと眠り始めた。海に行きたい理由は訊けなかった。

見慣れないナビゲーションに従いながら、ハンドルを強く握る。免許を持っているとは言え、長距離の運転なんてしない。そんな僕が運転しているにも関わらず、夏梅はやすらかな寝顔で隣にいた。

その無防備さを間近で見て、僕の心はぐちゃぐちゃに形を崩していく。恥、後悔、情熱、嫉妬、怒り、悲しみ。自分が散り散りになっていく。ハンドルと手のひらのあいだに、じわじわと汗がにじんでくる。

春の朝日が少しずつ、代り映えのない郊外の家々の色彩を染め始める。平和な街並み。ゆるやかに低速で流れる風景。

いつまで続くかわからない和やかな地獄は、僕が願った夏梅と僕の関係を具現化しているようで、胸が痛む。

□□□


「なつめ!これ見てこれ見て」

手のひらの虫を見てひゃっと飛び跳ね、ワンピースが泥に浸るほど転んだ夏梅。その姿を見てげらげら笑っていた、ばんそうこうだらけの北野。

「ほら、なつめ、いいから私に貸して。やるから」

幼いころからすらりと身長が伸びていた姉御肌の加納は、どんくさい夏梅をよくサポートした。夏梅は給食係のとき、だいたい役割を失っておどおどしていた。

こういう風に、僕は幼いころから夏梅を中心に世界を見ている。夏梅がいる思い出のスナップなら、何百枚もの履歴を検索できる。

僕の一人称で夏梅を捉えることもあるが、だいたいその時は心臓が妙な発作を起こしてしまうようで、うまく記憶を掘り返せない。

「けんちゃん。あのね。この前、おやすみしたぶんのノートを、見せてくれる?」

おう、いいよ。僕は遠慮がちな夏梅の相談を気前よく引き受け、ぶんぶんと首を縦に振って爽やかに笑った(つもりだ)。

「実はね、けんちゃん……私、体育の先生が苦手なんだよね……なんでだろう、すごく怖くて」

夏梅の表情を見るに、あれは深刻な話だったと思うのだが、僕はなんて答えたんだろう。ただうなずいていただけのような気もする。夏梅の肌の産毛がきらきらしていたことに、僕の意識は集中していた。

夏梅がいると、世界はとても輝いていた。その輝きをいろいろな角度から眺めているだけで、僕は十分だった。


その平穏な日々が崩されたのは、中学三年生のころ、まだ夏のなごりのあった帰り道だ。僕はおさななじみの北野と肩を並べて……いや、いつのまにか僕よりずいぶんと高い位置まで育った肩を恨めしく思いながら、夕日のなかを歩いていた。

北野からは、部活動で染みついた汗のにおいがした。北野は数年ぶりに地区大会を突破したチームのリーダーで、引退するときは英雄のように拍手を受けていた。僕はそれを見守る無数の生徒の一人。いつのまにか誠実そうな顔つきになった北野が、僕はあまり好きじゃない。

「なあ健人。夏梅って、彼氏いんのかな」

しばらくの沈黙のあと北野が僕にそう問いかけてきたとき、僕は全身の毛という毛が逆立ち、刀があるならば手をかける感情に襲われた。

「知らねえよ、そんなの」

僕はそれでも制服のポケットに手を突っ込んだまま、北野を睨んだ。

「……だよな、全然わかんねえよな……、いや、健人なら知ってるかと思ってさ」

ぼんやりした夏梅と、それを支える加納。ガキ大将だった北野と、影の薄い僕。ちぐはぐだが家の近い僕らは、おさななじみとしてお互いを認識している。

けれど、小学校を卒業して以降、僕らは一緒に遊んでいない。年と共に男女間の壁は高まり、それぞれ生活も離れた。部活動で大活躍の北野、生徒会に入ってちゃきちゃき働いている加納の姿は、嫌でも目に入ってくる。一方で夏梅は、日々の話題にのぼらないから、見続けないと隠れてしまう。

僕は、少なくとも北野よりはたくさんの夏梅を見てきていたはずだ。そう自負している。だから、北野の問いかけはあまりに予想外で、僕の大好きな世界への侵入者としか思えなかった。

「じゃ、またな。……あのさ、今度さ、訊けるようなら、訊いといてくれよ。夏梅の件」

別れる寸前、北野は似合わない照れた表情をごつい手でさすりながら、そう言ってきた。その表情は、北野が夏梅に対して抱いている感情をにじませていた。

僕は自分の狭くてしけったベッドのうえで、制服のまま頭を抱え、髪をかきむしり、布団に顔をうずめ、もがいた。「北野と夏梅が結ばれるなんてことは、あっていいわけがない」という前提が巨大な壁になり、思考は柔軟に働いてくれない。

遅ればせながら、僕は夏梅を女として認識した。しかも、それは北野という男が夏梅を女として認識しているから、という他人事がきっかけだ。

そのあとの僕の世界は、どうにも乱れてしまう。僕はずっと、変わらない小さな町の小さな学校で暮らす、にこやかな夏梅だけを見ていたかった。

□□□

僕は今、自動車という小さな部屋のなか、夏梅と二人きり、海に向かっている。この状況は、あの頃の僕が願っていた僕の視点で完璧な箱庭を作る感覚に近い。だからこそ、自分が恥ずかしく、こんなものを願っていたわけではないとわかる。

車窓には、変わりゆく風景が映し出されている。僕らの住むエリアから離れ、流れる家々の数が少なくなってきていた。まだ冬から春へ目覚めきれない緑たちが、静かな朝日の光のなかでそよいでいる。

ふと、道すがら鳥居が垣間見えて、去っていった。その朱は、現実世界を切り取るための異質な枠線のように見えて、恐怖を覚える。その、身の毛のよだつ感覚。

僕は高校一年生の冬を思い出し、つばをのむ。

□□□

加納は僕の倍速で人間的に成長し、社交的になっているのだろう。高校初の年末年始の休みに入った途端メッセージを送ってきた彼女の行動力に、僕は尊敬の念を込めながらため息をついた。

『久しぶり!全然会ってなかったからさ、四人で初詣に行こうよ!』

加納は学校で僕に会えば必ずあいさつしてくれていたから、こんなのなんてことない誘いだろう。しかし、北野に関してはあの帰り道以降、意図的に避けていたから、僕は会いづらい。

夏梅とも僕は距離を置くようになっていた。というのも、あれ以降、僕のなかには変な欲望が芽生えてしまい、夏梅を見ると妄想が勝手に躍りだす。その内容に自分が恥ずかしくなり、夏梅に申し訳なくなる。すべては北野のせいだ。僕はもう、おさななじみという懐かしいもので彼らを捉えられなくなっている。

僕は何かしら理由をつけて誘いを断ろうと考えあぐねたが、四人ならば、これまでの気持ち悪い感覚を払拭する良い機会となるかもしれない。単純に夏梅にも会いたかった。僕と夏梅の二人では会えないが、複数人という防護壁があれば、なんとか会える気がする。

結局、僕は冷え込んだ年始の朝、近隣ではそれなりに有名な神社へと足を運んだ。久々の再開にはしゃいでいる加納が手を振ってくる。北野は、また身長が一段と伸びていた。そして、夏梅は、変わらない笑みで首をかしげていた。

一度夏梅を目に捉えてしまうと、やっぱり世界の中心が夏梅になってしまう。僕のレンズはそういう風にできてしまっている。無条件で跳ね上がる心臓が恨めしい。

土に少しだけ積もった雪が、青く輝いていた。人々は今年の幸せを願っている。北野と加納は、会わなかった年月などなかったかのように、滑らかに会話を続けていた。その姿を、僕はただ圧倒されながら見ていて、夏梅は小さく口角をあげたまま、彼らについていく。

「夏梅は、元気だったか」

僕はできる限り彼女を見ないように努めながら、話しかけた。そうしないと、また例の妄想に下半身が奪われるから。

「うーん、そうだね……そうだなあ……元気かな」

歯切れの悪い返事だったが、とりあえず元気らしい。僕は納得した。次に何を話そうかと、呆けた脳を一生懸命に働かせていたところ、夏梅のほうが話を継いだ。

「いろいろ、話したいんだけど、なかなか。落ち着いてないと、話せないんだよね」

「落ち着く」

僕はバカの一つ覚えみたいに繰り返した。落ち着いたら、夏梅は何かを僕に話したい。ということは?

「どうしたら落ち着けるんだ?」

ほとんど反射というか、独り言のような問いかけだった。夏梅は首をひねって、僕の疑問符を一生懸命回収しようとしている。

「……ふたりっきりに、なれる、とか……?」

ぽつぽつと夏梅が答えていたところに、土足で走りこむような勢いで「夏梅!!あれ見ろよ!!でけえ鳥居だな!!」と北野が叫んだ。

立ちはだかる鳥居に、僕は目を細める。巨大な朱を前に、世界は青に沈む。異世界に引きずりこまれてしまうようなめまい。

「なになに、なんか話したいことあるなら話してよ」

加納は僕らの会話も聞いていたらしい。夏梅の隣にするりと入り、心配そうに彼女の目を覗き込む。夏梅は少し身を引いて、もじもじとコートの袖をいじり、ありがとう、と声にならない声で答えている。

「夏梅はね、全部自分のなかでためこんじゃうタイプだと思うんだ。でもさ、もしかしたら相談して解決することもあるかもしれないじゃん?私だって全部は理解できないかもしれないけれど、話を聞くことくらいならできるよ?今日だってね、この四人なら夏梅も来やすいかなって……夏梅からは全然連絡くれないじゃん?」

小学生のころから夏梅を見守ってきた加納だから言える言葉だろうが、加納が身に付けた社交性は、おそらく夏梅にも僕にもハードルの高いものだ。夏梅はただ、加納の言葉に黙って刺されている子犬のようだった。

加納の流れるような言葉を止めようとした僕に、北野が「なあ」と耳元で声をかけてくる。「やっぱり、夏梅かわいいな……久しぶりに見たけど」と小声で。僕は、あの帰り道以来の身の毛のよだちをもう一度感じることとなり、「ふざけんな!!」と反射的に叫んでしまった。

その声は周囲の人々が振り返る程度には大きく、もちろん加納と夏梅も僕を凝視した。夏梅の目は、今までにないほど不安そうな色を浮かべている。僕はすぐに自分の失敗に気付き、なぜか夏梅に「ごめん」と、小さく謝った。

「俺は、ふざけてねえよ」

静かな声にハッとして、僕に怒鳴られた北野を見上げた。彼は顔の筋肉を緊張させているが、決して焦っても、恐れてもいない、しっかりと僕を見ている。それは、僕が思い描く“男”の強さそのものと言えた。

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鳥居の下で、四人の時は止まってしまった。僕はあの時、北野を恨んだ。けれど、時を止めたのは明らかに僕だ。その事実は少しずつ僕の罪の意識をふくらませ、四人の関係性そのものをタブーにしていった。

色あせて湿った高校生活のなかで、僕は過去に対していろいろな解釈を加え、思い出を編集した。夏梅がかわいく笑っている姿や、ごくまれに高校の廊下で見かける、少し伸びた髪や横顔をうまく切り貼りする。心を落ち着かせるための術ばかりを身に付けて、僕の口や体はいよいよ重く、硬くなっていった。

高校三年の秋、そろそろマフラーを巻きたくなるような冷えた日だった。雨が降っていて、古びた校舎の下駄箱は青い影が伸びている。僕はいつも通りひとりで、履きつぶしたスニーカーを取り出すところだった。

「けんちゃん」

夏梅の声だ。僕は驚いて振り返った。

「一緒に帰れる?」

校舎内でトレーニングをしている部活動の声が、廊下にわんわんと響いている。僕は聞き間違いだったかと、下駄箱にぽつんと立っている夏梅の口元をまじまじと見た。

「……傘、忘れちゃって」

少しうつむきながら、夏梅はセーラー服の上に着たカーディガンの袖を、指先できゅっと握っている。

「あ、おう、いいよ」

黒い大きな傘の下、僕は夏梅と雨のなかを歩き出した。コンクリートをじゃりりと踏みしめる不規則な音が、僕らの歩幅の違いを浮き立たせる。

ざあああああ。雨は周りのすべてから僕らを切り離しているようで、円内は二人だけの特別な空間のように思えた。

肩が少し触れるだけで、むずむずと這い上がる化け物が下半身あたりでうずいて、そいつと戦うことに必死で、何を話せばいいのかがわからない。夏梅は小さな歩幅で、着々と帰り道を歩んでいる。

何か言いたげな水たまりが連なっている。夏梅が止まったのでハッと視線を上げると、信号が赤になっていた。ゆるゆる進み始める自動車の音が、数秒後にはまた雨音に替わり、突如二人の沈黙を浮き立たせる。

「夏梅ん家、行くの久しぶりだな」

なんとか絞り出した声はひっくり返った。

「ああ、うん、小学生ぶりかなあ。北野くんと雪穂、けんちゃん、四人で遊んだね」

「おまえん家、なんかすげー綺麗だったの覚えてる。花とか飾ってあってさ、たしか、おばさんがケーキ焼いてくれてたよな。うちのおふくろなんて、ケーキどころか飯もめんどくさいみたいなタイプだからさ、まじでびっくりしたよ、夏梅って意外とお嬢様なんだなーって」

信号が青に切り替わったことで、呼吸が止まって言葉も途切れた。

「そんなことないよ」

夏梅はリュックを背負い直し、歩きながらゆるゆると首を横に振った。否定されてしまうと、次に何を話せばいいのか、わからない。でも、よく考えてみたら、肯定もしづらい話題だったか。僕は自分の口下手さを恥じて、頬が熱くなるのを感じた。

「……あ、進路。進路、どうするんだ、夏梅は」

おいおい、まるで先生のような切り出し方だな……。もう、何を話しても失敗のような気がして、僕の胃はきりきりと音を立てる。

「東京の大学に行こうと思うよ」

え、と漏らして、僕は立ち止まる。彼女はこちらを見ない。

「東京の、どこ?」

「わかんない、考え中」

ということは、東京に行くことのほうが目的なのか。なんだか妙な気分だった。ここは田舎だが、電車で無理なく市街地に出ることもでき、そこにはいくつか大学の選択肢もある。たいして偏差値が高くない我が校のほとんどの生徒は、実家から通える大学への進学か、就職を希望しているようだった。

夢や目標を掲げて突き進むタイプの一部の生徒は東京に行くと息巻いていたが、夏梅はどう見てもそのタイプではなかった。つまり、まったく予想外の答えだった。

「なんで?」

自然な流れの疑問だったが、夏梅は心外そうにこちらを睨んだ。そして、傘の停止に逆らうように、歩き出す。僕は、どうやらこの帰宅中の道のりで一番の失敗をしてしまったようだ。彼女に雨が当たらないよう、足をもたつかせながら、ついていく。夏梅の声は、少し震えていた。

「なんでって……そんなに変かな」

「いや、変じゃないよ」

なんとか繕いたい一心で、僕は嘘をついた。夏梅はいつもにこやかで穏やかなのに、はじめて僕に対して敵意を向ける目をしたものだから、とんでもなく焦ってしまった。

夏梅は「じゃ」と、自分の家を指さし、僕らを囲んでいた円内から小走りで離れていった。自分の玄関先でぱたぱたと雨粒を頭からほろい、にこり、とぎこちなく笑った。

「ありがとう、ばいばい」

彼女が吸い込まれていった家の玄関は、暗かった。錆の浮いたポスト、枯れたツタが絡んだ庭先、軒先に張った蜘蛛の巣。夏梅の家って、こんな感じだったっけ。小学生のころの思い出が、歪む。

夏梅はその後、僕に一切連絡をしてこなかった。あの日以降、二人で入れるあの大きな黒い傘を晴れた日ですら持ち歩いたが、活躍する機会はなかった。

□□□

あの頃より少しは大きく、分厚くなった手をギアに置く。その緩やかなカーブが、あの傘の柄の曲線を思い出させて、僕は情けなくて泣きそうになる。

晴れた日も傘を持ち歩いて夏梅を待つことに、どれほどの意味があっただろう。夏梅にとって雨の日がいつかを推し量ることのほうが、必要だっただろうに。

でも、僕は傘を持ち歩く自分を不憫に思うことで、夏梅に必要とされていない自分というものを作り上げていった。僕は、結局みじめに片思いをするだけの男だ。夏梅からは連絡も来なければ、話しかけられることもない。年月が経つにつれて、過去の痛みや恥は和らいでいった。

運転席から見える空は、少しだけ雲が多くなっていた。今日も雨が降るだろうか。今度こそ僕は、雨に過去ではなくて未来を見られるだろうか。できれば、雨雲の奥には青い空が待っていてほしい。そんな願いを、まだ僕は抱いている。

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夏梅は宣言通り、高校卒業後東京へ行ったらしい。“らしい”というのは、本人から聞いたわけではなく、成人式で再開した旧友たちが噂していたから知った話だ。

誰がどこの大学に行った、誰と誰が交際していて、誰それはもう結婚している。驚きの叫び、笑い声、それらのなかから、僕は夏梅の名前を拾うことばかりして、自分からはその輪に入れない。居酒屋に集まった“地元”の仲間たちは、もはや名前と顔が一致しない人ばかりだった。

「ああ、夏梅ね。最近どうしただろうな……。俺、高二のときあいつと付き合ってたから、そのあとはどうも連絡しづらくてさ」

ジョッキを片手に頬を赤く染めた北野がそう言ったとき、僕は机の端で奥歯が噛み合わず、ぎりっと音を立てた。

僕と北野の間には、あの後、何の信頼関係も築かれていない。北野がいましがた口にした夏梅の話題も、僕に対してではなく、周囲の旧友たちに向けられて語られていた。でも、きっと北野は、僕がこの席にいることを知っているはずだ。耳の奥が鈍く鳴る。

僕の表情を見て、すかさず水の入ったグラスを渡してきたのは加納だった。

「健人、あんまりお酒強くないでしょう、顔、真っ赤だよ。無理して飲まなくていいんだよ。こういうところだとみんなハイペースで飲むから調子狂うよね」

流れるような手つきで何合目かわからない冷酒を自分の猪口に注ぎながら、加納は僕と距離をつめ、肘をついて僕の視界の大部分を奪う。まるで、北野と僕の対角線を埋めるように。

僕はその気配りや優しさをうらやましく思うとともに、この場においては腹立たしくも思う。加納は僕や夏梅のような相手に対して、コミュニケーション能力を武器に立ちはだかる。僕は余計に、騒がしい店内のノイズから北野の言葉を拾うことに集中してしまう。

「夏梅ってさ。一緒にいると不安になるんだよな。何考えてるのか、ちっともわかんねえんだよ。俺ばっかり気を遣わないと成り立たなくて、だんだんむかついてきて。まあ、俺が告ったわけだから、当然かもしれないけどさ」

北野はそこまで言い切って、ジョッキを空ける。その言葉を通じて、僕は北野と初めて共鳴した。僕もそうだった。夏梅のことが何一つわからない。だんだんむかついてきて。成り立たなくて。

僕はもう一つ初めて、認めることができた。北野は夏梅と向き合ってその感想に至ったのだ。僕の知らない間に、北野は夏梅と時間を共にしたのだ。僕が逃げているあいだ、北野と夏梅のあいだには、知らない物語が育まれている。

「なあ、加納。最近の夏梅って、どうしてるの?」

僕は加納から渡された水を飲みながら、北野に聞こえないよう、小声で尋ねた。加納はぴくりと眉を上げたけれど、ゆるゆると息を吐き、「知らない」と低く答えた。

「っていうか、夏梅から連絡がきたことなんて一度もない。夏梅にとって、私は友だちでもなんでもなかったのかもね」

そのぞんざいな返答に、僕は目を見張った。僕が夏梅から離れた間、夏梅と接点があると信じていた加納はノーコンタクトで、あれほどに接点を切り離したかった北野と夏梅は交際していたと言う。

僕は流れる時間をいかに自分の見たいように編集し、勘違いしてきたのか。

加納は僕が愕然としている間も、夏梅に対しての想いをしばらく話していた。その視点はあまりに冷たく遠く、僕はまるで知らない人の話を聞いているような気分にすらなってくるのだった。

「あとから知ったことだけれど、夏梅のお母さん、心の病気がどんどん悪くなって、夏梅も追いやられていたみたい。でも、これ、本人から聞いたわけじゃなくて、うちのお母さんから聞いたことなの。町の噂話だね。それでもう、私から連絡するのもやめたんだ。無理に聞き出してもしょうがないなって」

加納の言葉がだんだんと色を失っていって、視界がどんよりと濁っていく。夏梅が初詣の日に“落ち着く場所”を、“ふたりっきりで話せる時間”を求めたことを、今さらになって、思い出す。

僕なら、そばにいられたのかもしれない。でも僕は、加納と同じように、あるいは北野と同じように、夏梅から去ってしまったのかもしれない。

“ふたりっきり”。

大きな黒い傘の下。あれが最後のチャンスだったのだろうか。青く染まった雨の靄のなか、錆びた家の闇に吸い込まれていった夏梅。僕は編集された過去の思い出話にすがり、現在の夏梅を黙らせてしまったのかもしれない。

吐き気がして、僕はふらふらと席を立った。夏梅に今すぐ謝りたかった。今すぐに話をしたかった。足はトイレではなく、居酒屋の出口へと向かう。深夜の駅前、いくつかの居酒屋やチェーン店、街路灯以外の光はない。浮かれた騒ぎ声がドアの向こうに押し込まれた瞬間、静寂が僕を包んだ。

スマートフォンを取り出し、僕は何度も、何度も電話をかけようとし、できずにうずくまった。そして、メッセージを書いては消し、書いては消した。僕から夏梅にメッセージを送ったことなど、一度もなかった。

『落ち着いて話せる場所に、二人で行きませんか』

あらゆる感情に呑まれて、メッセージを送信した瞬間、僕は僕のなかのすべてをぶちまけるように吐き続けた。

□□□

僕はコンビニエンスストアの駐車場に車を止め、おそるおそる隣を盗み見た。まるで死んだように、夏梅は目を閉じている。

運転席から降りると、風に乗って、わずかに潮の香りがした。太陽はすでに淡い午前の角度まで昇っている。考えてみれば、ご飯を食べていない。それは、夏梅も同じだ。

僕はだだっ広いコンビニエンスストアのなかで、パンを数種類選ぶ。夏梅が何を好きなのかも知らない。なんとなく甘いものが好きそうな気がしたが、もしかしたらコロッケパンが好きなのだろうか。たった一言訊けばいいだけの無数の未知を、僕は放置して二十二歳になっている。

運転席に戻ると、その揺れに応じて、ゆっくりと夏梅がまぶたを開けた。

「これ、おなかすいたかなと思って、買ってきた」

僕が勧めると、夏梅はぱっと表情を明るくし、「ありがとう」と、ビニール袋を受け取った。メロンパンを選び、まごつきながら袋を開ける。その一つひとつの動作を愛しく思いながら、それでもなお、何一つ彼女を知る努力をしなかった自分と初めて向き合う。

海を見たいなあ。

それが、二年ぶりに夏梅から届いたメッセージだった。僕が羞恥の想いに焼かれながら送ったメッセージへの返信は、二年の歳月を経て戻ってきたのだ。

この二年間、僕はもう、過去をうまく編集して逃げようとはしなかった。それに、過去を今日ほどに思い返すこともなかった。

未来を描くために、過去に戻る必要などないと、自分に言い聞かせて。僕は海に向けて、アクセルを踏む。

「ずっと寝たふりをしていて、ごめんね」

夏梅の声は、思い描いていたよりもかすれていて、冷めたトーンだった。僕は気付かなかったので、正直にその旨を伝えた。夏梅は苦笑いを浮かべて、首を横に振る。

「気が付かなくて、ごめん」

僕が思い切ってそう言うと、夏梅はしばらく沈黙し、はっきりとした声で返答した。

「違うでしょ。見ようとしてこなかったんだよ」

その言葉を受け止め、僕はまたしばらく、口を結ぶ。罪悪感に押しつぶされそうになりながら、息を吸い込む。

「その通りだと思う。僕は夏梅を見てこなかった」

夏梅はまた沈黙した。そうやって、僕らはお互い、沈黙し合いながら、ときどき言葉を交わして、何年もの間を過ごしてきたのかもしれない。僕らには、僕らのリズムがあって、僕らのミスがある。

「遅すぎるんだよ」

夏梅はそう言ってから、視線を落とす。そうして、眼前に迫った青い景色に、もう一度目を戻す。

「私が」

「いや、僕のほうが」

自動車を止めると、夏梅は僕の手を借りず、しっかりとした足取りで助手席から降りた。想像よりも近く、海が僕らに迫った。

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空と海の質量が、あまりにも重い。このように現実は確かにそこにあって、止まらないものだ。区切りめのない青は、底も端もなく続いていた。

夏梅はがむしゃらに両足を使い、その砂浜を、海に向かって走っていった。ときどきよろけながら、力いっぱいに。僕はそれを追った。

いつもそうだったんだ、と思う。僕は、夏梅を追いかけてばかりで、手を差し伸べたことなど一度もなかった。

夏梅は眼前に広がる青に全身を染め、透明になっていくかのような強さがあった。夏梅は大きく息を吸い、波音に勝る言霊を吐く。

「私は、けんちゃんにお別れを言いに来たんだ。もう、期待しなくていいように」

僕は、一瞬たじろいだ。それでも、僕もまた、眼前の海を睨んで、なんとか声を張る。

「僕は、夏梅に告白しようと思って、海に連れてきた。もう後悔したくないから」

夏梅は馬鹿みたいに大声で笑った。それが無理をしていることくらいは、わかる。

「待ってたんだよ?ずっと。ずっとけんちゃんが助けてくれるのを。でも、救われなかった」

「だから、今日、その」

「遅すぎる」

心のなかに残る夏梅の写真一枚一枚が、すべて僕に与えられた優しさであり、期待であり、興味であったことを。切り捨てられてから理解するなんて、そう、遅すぎる。

僕は、最期になるかもしれない夏梅の表情を見ようと、涙で歪んでいく視界で、なんとか夏梅を見つめる。

夏梅の瞳からも、涙があふれていた。そして、彼女は彼女の言葉で、僕の知らない年月を振り返った。

「でもね、それは私もなんだ。私は周りの人が与えてくれた優しさ、心配をすべて無駄にしてきた。たくさんの苦しみがあったけれど、結局、けんちゃん以外の人に打ち明けることを、選べなかった。いつか救われるって、黙って待っていた。助けてくれないけんちゃんを責めれば、自分は弱い者でいられた。勝手だった。甘えてた。だから、私は本当に、ひとりになるの」

夏梅は深呼吸した。彼女は、もう幼い表情などしていなかった。一人の女性が、そこに立っている。一陣の風が僕らの間を吹き抜けた。

「さようなら」

彼女は砂浜から去っていく。僕は立ちすくみ、迫る青に身を焦がされて、そのまま沈んでいく。また、過去へ没入したほうがどんなにか楽だろうか。彼女が二度と登場しない未来を見るより、ずっと幸せな停止。

けれども。

――……海を、見たいなあ。

僕の足は、夏梅の元へと、勝手に動き出す。青に背を向け、足を止めようとする砂を押しのけて、僕はすべてのエネルギーで叫びながら走る。

「夏梅、大好きだ」

その言葉があふれた瞬間、恥や後悔は爆発し、涙でぬれた顔は熱を取り戻した。

「夏梅!!大好きだ!!」

たった一言にたどり着くまで、僕はどれほど青に縛り付けられたものか。

振り返った夏梅の瞳にあふれる無数の未知の輝きに、僕は初めて、手を差し伸べる。

END


写真提供:KASUMI(Twitter@miiiii7so、Instagram@ka_77ii)


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