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「自由な気持ちで、どうぞ」

ピアノの先生がそう言った。

私の緊張がわかるようだ。

私はかたくなっている。

ガチガチに。

「自由な気持ちで、どうぞ」

その言葉が、

鍵盤に手を乗せた瞬間に

耳から脳へ、

そこから心、

そしてお腹に届いた。

でも、腕と指には届かなかった。

自由に弾けなかった。

1人なら弾けるのに。あんなにうまく。


私はある時期から、とても緊張するようになってしまった。

人前で話す時。

人前で弾く時。

人前で料理をする時。

それはとても面倒くさい現象だった。

何かをする時、緊張は余計だ。

私は恥ずかしがり屋になったのだと思った。

本当に面倒なことだった。


でも、ちょっと違かった。

私は実は、こんな気持ちでいっぱいだったのだ。

カッコ悪くなりたくない。

できる人だと思われたい。

一目置かれたい。

否定されたくない。

感心されたい。

そんな、人から認められたいという欲求に、

全身、心までも、まみれていたのだった。

何かをする時、そのことによって

どう思われたいか、

どう思われてはいけないか、

そんな下心の鎧で、

その行動の純粋さを、

ガチガチに固めてしまっていた。

それは鎖となって、私を縛っていた。


「私これから弾きますけど、誰よりもスゴイ奴だと思われたいんですよねぇ」

例えばピアノの発表会で、

そんな意気込みなんて、聴く方は求めてない。

聴く方はただただ、純粋に音楽を楽しむことしかしないのだ。

その結果、聴いた人たちは、各々自由に述べる。

「すごいよかったよ〜〜!」

とか。


そう。

そもそも、聴いた人がどう思うかまでは、私は手出しできない。

それをどうにかしようとするから、力んでしまう。

上手く弾いて、感動してもらいたいと思うのは間違ってない。

でも、他人に認められていい思いをしたい、

という邪心を込めて弾いてしまうと、

自由に弾くことができなくて、

全然いいピアノにならない。

人のためには、弾けない。

ピアノは、

私が自由に弾いていて、耳が気持ちいいと、

聴く方にとっても、いいピアノになる。


そもそも聴きに来てくれる人は、

私をジャッジしに来た”敵”じゃない。

そんな暇な奴、世の中にいない。

むしろ、

認められたいとか力んでる私を知る由もなく、

純粋に上手くいくように祈ったりすらしてくれる、

”天使”なのだ。


だから例えば、

「今日の、今の自分は、こう弾きまーす。こんな感じ〜こんな曲なんですよ〜。ココが一番盛り上がって〜ココはすごくきれいでしょう?ココもオススメで、おっと間違えた〜ご愛嬌笑〜さてさて、最後はホラこんな風に終わっていきますよ〜。はぁ〜まぁまぁ、よく弾けました。みなさんどうでしたか?気に入ってくれたら嬉しいです〜ありがとう!」

とか思いながら弾いた方がよっぽど自由で、

結果思ったように弾けて、

思ったように弾けば上手く弾けるわけだし、

上手く弾ければ感動させられるのは、

わかっているのだから。


肩肘を張ると、

かえって不自然になったり、

思わぬところでつまづいたりするものだ。

ふだんのそのままの純粋さだけ持っていれば、

普通は批判なんてされないし、

事なきを得るものだと思う。

そんな状況でなんか言ってくる奴はおかしいのだ。

くらいに、自分の純粋さに自信を持てるようにした方がいい。


自由は、こんな形でも手に入れられる。

これで私の世界からひとつ、

”敵”がいなくなって、

ついでに平和も訪れる、お得な出来事。


4月のピアノの発表会は、

きっと良い緊張感で。











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