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努力の娯楽化から、無意識へ

昨日何気なくこんなツイートをした。

深く考えていた訳ではなかったのだけれど、自分で目指しているところはここなのだなと腑に落ちたので、それについて書いてみる。

最近、努力の娯楽化という言葉をよく聞くようになった。頑張っていることを辛いと思わずに楽しめたら最高である。逆に言えば、楽しんで努力できることが自分に合っているということも間違いない。なにかを続ける上での大切な一つの要素だと思う。

ただ、それを否定したい訳では全くないが、僕自身がその言葉を使うのはなんとなく抵抗があった。いいことだなと思うのに、自分でもその理由がよくわからずにいた。その答えがポロっと出たのが、このツイートだ。

努力の娯楽化の先にあるのか、横にあるのか、そこまではまだ見極められていないのだけれど、僕はとあるものを自分の中で当たり前のこととして、無意識にできるようになっていたいのだ。

つまり、努力という次元から脱したい。

理由は僕が怠惰であること以外にないように思う。努力になにかしらの感情が加わると疲れてしまう。だからこそ、無意識でなにも考えることなく、努力と呼ばれるものを実行できるレベルに行きたい。周りから見ればそれは努力かもしれないけど、僕にとっては生活の一部であって、歯を磨くようなことにしたいのだ。

例えるならば、ちょっと古いけど、スーパーサイヤ人でいることに慣れた悟空と悟飯のような感じ。

楽しむというポジティブな要素はなくなってしまうかもしれないけど、僕にとってはこちらの方が馴染むような気がしている。


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