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自分が誰でもなくなる瞬間を大切にしたい

朝起きて窓を開け、深めの椅子に身をどかっと預けて、眼を閉じながら、もの音を聴く。

ザーーー 木々が風に揺られている
カラカラ 木の葉が地面を駆けている
ピィッピ 小鳥が仲間と鳴いている
ブゥーン 車が通った
タタンタ 今度は電車が通った
ガチャン お隣さんが起きてきた
ウェェン お隣の赤ちゃんも起きてきた
スースー 妻は気持ちよさそうに寝ている
ウーーー 冷蔵庫が僕らを静かに待っている

30分。

ほんの30分だけど、贅沢な時間。

もの音に耳を傾けるだけで、ジワジワと心に染み付いたものが溶けていく感じがするから不思議だ。(例えば、キャンプで泊まった翌朝に自然の中でウトウトする気持ちよさ、と言えば分かってくれる人はきっといると思う。)

いつもはここで終わるのだけど、今日は「この気持ちよさは何なんだろう」とボンヤリ考えた。結果、辿り着いたのは、僕はこれらの音を聞いてるのではなく、もの音を聴いている、ということだった。

少し前に読んだ樋口桂子さんの『日本人とリズム感 ―「拍」をめぐる日本文化論―』という本と繋がったところがあるので、少しだけご紹介させていただく。

日本語の「もの音」は、まわりに溶け込んでいく物を物体として感じさせるすれすれのところにあって、ただ存在を語りかける語であるところがある。

音を響かせるだけの或る落ち着いた状況と気配がそこにあることが、「もの音がする」という言い方の底にある。「もの音がする」は、音の方ではなくて、「もの音」を生み出すものの気配があることを伝えている。

つまり、もの音として聴くということは、まずそこに落ち着いたゆるやかな状況がある。そして音を追いかけるというよりは、何となくその音の気配を感じるくらいでいる、いうことだ。

確かに例えば、カフェの騒がしさや銭湯の滝のように流れ出すお湯の轟音は、ノイズではなく、ただそこにある音(=気配)として存在して心地よさを与えてくれる。もの音は、ゆっくりとした時間と空間をくれるのだ。

それが「もの音を聴く」気持ちよさだとした時に、僕にとってそれはどういう価値があるのか。

今朝の30分が贅沢に感じたのは、自分が気配に溶け込むことで、その瞬間だけは自分自身が誰でも何でもなくなるからだと思う。風や電車、冷蔵庫と一緒に、ただそこに存在する一つのものになる。つまり極端にいうと、日々の責任を一度全て放り投げて、真っさらな状況になれるからだ。

先日書いたnoteの奥底にあったのは、そういうことだった。こうして日々の忙しなさとバランスをとっていたのだ。


僕は、全ては心の持ちようで決まるという言葉があまり好きじゃない。言いたいことはわかるけど、その言葉を投げかけられる時は、心の持ちようがわからないから困っているのだ。

だからこそ、日頃からこういうツボを自分なりに見つけて貯めていくしかない。心の持ち方をあらかじめ持っておく、自分の感覚を見つめておくことが大事なのだと思う。


さて、なんだかスッキリしたので、夏バテ対策にカレーでも作ろうかな。


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