見出し画像

[日記]2021年3月19日(金)

 在宅勤務を終えようとした時に友人から一本の電話が入り、LOSTAGEの配信ライブだったことを思い出す。急いた腕で会社用のパソコンを片付け、Macを立ち上げブラウザを開くと、幾度も聴いた曲が耳に届く。幾度も繰り返し網膜と鼓膜に焼き付いた映像と音像が、捉えられるように俄に立ち上がってくる。しかし、それは慣れ親しんだ曲ではなく、今ただこの瞬間に空気を震わせている音像であると感じる。

 先月に新木場で観た肉薄するようなライブではなく、自分がこの部屋にいるからこそ聴くことができる音楽である。昨年から続くもどかしい世情を文脈と位置付けた時に感じられる押さえ付けられたような高揚感が頭を擡げて来るのが分かる。行き場を失った高揚感は視線となって画面に当たりキーボードへ落ちてゆく。それでも無機質なキーボードには染み込んでゆかず、いつかはこの部屋の空気となって対流を続けるはずである。ある種の強かさが内側の高揚感にはあり、解ける契機や理由をこの映像と音像に求めている。

 学生の時分より観てきたバンドの変遷は自らの変遷と重ねることもでき、その投影には甘美な感傷に浸ることも厭わないような感情が萌芽していることが分かる。このような文章を綴ることができる程の時間を経て、それでも当時と同じ曲を繰り返し聴いていることに懐古の念がないこともなく、踵から轍が過去へ向かって伸びていることも感じる。そして、まだ不器用に転がり続けている岩を追い続けようと思っている自分自身も不恰好な岩そのものであり、この先もその岩の造形に一喜一憂できる自らの心情に、何処か安穏としている自分もいる。

 酔いが回ってきている。岩と言い換えるのは安直過ぎないだろうか。それでも岩と言い続けるのは、よすがというには幾許かの恥じらいがあり、より剥き出しの、そして虚心坦懐に綴ろうとして逆説的に言葉の綾を披瀝する賢しらな様を、振り返る道程で感じたためである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?