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産後パパ育休の記録③ そして出産

妊娠発覚から臨月までの心境の変化

 妊娠がわかった。不妊治療をしていたので、その結果を確認するために妻が通院した日の夕方に検査結果を知らせるLINEが届いた。妊娠した可能性が高いという結果が出たとのこと。胸が高鳴り、うれしかった。私としてはただただ、うれしかった。

 妻はというと、本人が口にした表現をそのまま書くと「アワアワした」らしい。もう、この時点で男女間の気持ち的な差はあるんだなと思った。

 あくまでも自分ではなく妻が妊娠した私はとりあえず嬉しいだけで、自分が妊娠した妻は当然うれしさもあったようだが、同時に不安も大きかったようだ。ある意味、自分事として責任を感じる妻と他人事として無責任にポジティブな面だけ見ている夫、みたいな。もしかすると、孫を甘やかすジジババと子に厳しさを以って接する父母との間にある差と似ているのかもしれない。

 それから少しした頃に、妻に下からの出血がみられた。妊娠初期の軽い出血は気にしなくていいと言われていたが、その程度ではなかったので妻は病院に駆け込んだ。私も職場を飛び出して妻を迎えに行った。妻は「多分、ダメだったんだ」と半ば諦めながら診察を受けたようだが、結果としては良性の出血で、検査のついでに心拍まで確認できた。

 妻は改めて妊娠を実感し、エコーに映る心拍の映像を見て泣いていたが、この時点でも私は生命が発生していることに対する感動こそあれど、自分が父になった実感や子ができた実感はまだ湧かなかった。

 私が初めて「我が子」を実感したのはそれから数か月後。妻のお腹に手を置いて、初めて胎動を感じた時だった。全身がぞわぞわと身震いし、私と妻以外の人間の存在を強く感じた。なんとなく、その時に父親としてのスイッチが入ったような気がする。

そして出産

 妻が産休に入り、予定日が近づいた。仕事面ではひと通りの引継ぎも終わり、誕生を待つだけになった。

 しかし、予定日になっても予兆すらない。まぁ、初産は遅れる、という話は方々で聞くので、さすがに焦ることはあまりなく、のんびりと構えていた。そして、陣痛は突然来た。

 連休中の昼下がり。軽い散歩をしていると妻がちょっと疲れたと言う。お腹が大きくなってきてから妻が疲れやすくなっていることはわかっていたが、この日はそれでも「疲れるの、随分早いな」と思った。そして、帰宅してすぐに「おなかが痛い」となった。

 10分くらいの感覚で腹痛が来るらしく、陣痛っぽいなという話になった。病院からは「陣痛が始まっても焦らず、痛みの感覚が10分くらいになったら電話してください」と聞いていたが、いきなり10分間隔で陣痛が来るのでどうしたものかと思ったが、痛みもまだ想像していたよりも弱いらしく、少し様子見をすることに。

 痛み出して3時間くらいがたったころ、痛みが強くなった。相変わらず10分くらいの感覚で痛みが来る。この3時間の間、妻は布団の上で定期的にうなり続け、私はソファの上でゴロゴロしていた。それくらい、この段階に入ったら男にはできることがなかった。妻からも「長期戦になるかもしれないから、あんたは今のうちに仮眠をとったり休んだりしてくれ」と言われていたので、遠慮なくゴロゴロしていたが、妻が悲鳴に近いうなり声をあげたので、おや?と思った。

 病院に電話すると「では一度来てみますか」という話になった。陣痛タクシー(タクシー会社のサービスで、陣痛が来ている妊婦を乗せることを前提とした車両を手配してくれるので、いろいろと気楽。ドライバーさんも事情を分かっているので、車内で唸ったりしても必要以上に心配されない、とか)を呼んで病院へ行くも、コロナの影響でとりあえず妻だけしか病院には入れないため、私は近所のファミレスで待機。

 40分ほど待機していると、結果的にまだ早かったらしく一時帰宅となった旨の連絡が入る。またタクシーで帰るが、その間も陣痛は続く。帰宅後も陣痛は続くも、痛みの大きさや感覚は変わらないので、待機。私は再び痛みで唸り散らす妻を尻目にゴロゴロすることしかできず。妻からもゴロゴロしとけと言われるのみ。男って無力だと痛感する。

 15時ごろに最初の痛みが来て、18時ごろに一度病院へ。そして再び帰宅して痛みに耐え、日付が変わるころになって痛みがもうひと段階強くなったらしい。痛みの感覚は約7分。病院に電話すると、いい頃合いかもしれないということで再度病院へ。今度は入院となった。

 私も今度は病院に入ることが許され、0時過ぎに入院。子宮の状態や胎児の心拍をモニタリングする器具を取り付けられた妻は依然痛みとの格闘中。一方私はというと、戦う相手は自分の眠気くらいなもので、ベッドわきの椅子に座ってうつらうつらと睡魔との戦いを始めていた。

 夜明けまでに産まれたら非常に順調だと言えます、と助産師さんなどから説明を受ける。夜明けまで5時間くらいある。出産って大変だなと、改めて思う。助産師さんやお医者さんも妻の状態を頻繁に確認しに来るが、私のことはほぼ空気扱い。たまに妻の痛みが和らぐ方法などを教えてくれる程度で、悪く言えば無視され続けているような状態が続いたが、実際私ができることは本当に限られているので仕方がなかった。

 男は本当に無力だった。その場にいてくれるだけでいい、と妻は言うが、そもそも、その場にいること以上のことは何もできないのである。

 結局、入院してから12時間以上経過して、昼になってからいよいよ分娩台へという運びになったが、そこからが壮絶。陣痛は最高潮、会陰切開の必要もあったようで分娩室に鳴り響くハサミで肉を断ち切るバチンという音、お腹を押しますと産科医が言って妻のお腹を力ずくで押し下げ、陣痛のうめき声とは違う妻の苦痛の声が低く轟いてやっと子猿のような我が息子が姿を現した。

 弱々しい産声はクレッシェンドで強くなった。妻にも安堵の表情が見えた。私自身は生命誕生の瞬間の感動というより「あぁ、そうやって出てきて、そういう風にへその緒で繋がってるのね」というような関心のほうが強かったのを覚えている。自分の子供が産まれた!というよりは、これが俺の子かぁ……という感じ。

 助産師さんたちのテキパキした作業の後、赤ん坊は妻の腕の中に来た。小さく、しわしわで、人間ではないみたいだが、指先には小さな爪があるし、手のひらには手相があるし、細部まで人間の作りをしていた。

 その後、妻の子宮から胎盤がなかなか出てこなかったようで、さらに処置は続いた。胎盤は出産後に早く出てくれないと結構まずいらしい。妻は腹をぐりぐりとマッサージされ、母体に繋がっているへその緒を産科医さんが軽く引っ張ったりしているようだった。それでも出てこないので、ほんのちょっとだけこのまま様子を見てみよう、ということになり、産科医さんが処置を中断した瞬間、妻が「あ、何か出そうです」と叫んだ。

 その瞬間、妻の局部から血が太く噴水のように噴き出た。ぎょっとする量の血の量で、大丈夫なのか心配になった。妻からその出血は見えていないが、妻の顔色は蒼白だった。でも、スタッフの皆さんは落ち着いたもので「あ、出そうだね」「そろそろ掴めそうかも」「もう一回お腹、押してみて」などと、まるで日常の一コマのようなやり取りが進行していたので、私自身も落ち着くことができた。

 血の噴水のあと、助産師さんが再び妻のお腹をグイっとマッサージすると、さらに数回の噴水が湧きたった。そして、産科医さんが穴の奥から胎盤を引っ張り出した。その間、妻は出産のときよりも苦悶に満ちた表情を浮かべ、呻き散らしていた。

 出てきた胎盤は内臓そのものだった。肉屋に並んでいそうな新鮮な臓器。それが人間から、さらには妻から出てきたということが再び興味深かった。

 出産って、子供を産んだら終わりってわけじゃなんだと胎盤を出す作業を見て衝撃を受けたが、妻の苦痛はまだ続いた。会陰切開をしていたので、縫合処置が始まった。

 切開するときに麻酔を軽く打ってあるとはいえ、麻酔は結構浅い部分にしか効いていないらしい。縫合する場所によっては麻酔なしで処置しているような鋭い痛みが走っていたらしく、妻はまた痛みに叫ぶことになった。

 結果、妻は1.4リットルほどの出血があったらしい。あと少し出血量が多ければ輸血も必要だったようだが、ギリギリそのレベルには達しなかった。それでも分娩室から病室までは歩くことはできず、車いすでの移動となったし、病室でもしばらくは様々な器具が取り付けられ、経過の観察が行われた。トイレにも行けないので、定期的に助産師さんがおしっこを「取り」にきた。管を尿道にさし、膀胱から尿を抜くのだ。

 水分補給のための点滴には子宮収縮剤も追加され、さらにはサビ水のような色の鉄剤も追加された。たくさんの管に繋がれ、よくわからない液体を注入されつつ様々なバイタルサインを測定されている妻は大病に蝕まれた重病患者のようで、出産って下手な病気より命がけなんだなと、改めて感じた。

 15時くらいから陣痛が始まり、24時くらいに入院し、翌日の14時くらいに分娩台にやっと上がって15時くらいに出産。そして産後の処置が色々あって17時くらいに病室に戻って経過観察が始まり、19時に面会時間が終了ということで私は妻を病院に預けて帰路についた。陣痛が始まってからざっと28時間後にひと段落、である。

 妻はというとそこからさらに24時ごろまで経過観察が続いて、やっと「大丈夫そうだ」というところまで体調が回復し、まともに休むことができたのだというから陣痛の始まりから34時間くらいは戦い続けたことになる。

 妻の勝利を讃え、自分自身の睡魔との戦いの健闘ぶりも讃え(私の敵は本当に睡魔しかいなかった。男ってそんなもんか……妻に申し訳ない)、新しく誕生した私と妻の遺伝子を半分ずつ引き継ぐ命を讃え、ともに戦ってくれた病院の皆さんに感謝し、10か月ぶりにビールを買ってから帰宅した。

 ようこそ、この世界へ。乾杯。

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