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書評「世界を敵に回しても、命のために闘う」⑤

前回の続きです。第5章、第6章は私が得意なDP号のイワケン批判ではなく、日本のコロナ政策がどう出来上がったかのお話です。そこにはDP号で活躍した人達が非常に大きく関わっています。昨年神奈川県知事がTVで「大元は神奈川県で作った、厚労省はそれに沿った」といって波紋をよびましたが、その内幕が書かれています。

シナリオライターと呼ぶべきなのは、当時神奈川県の顧問をしていた畑中洋亮氏。医者ではなくITに強く、様々な改善策を立てて実行した方です。親からの教えもあり「公」精神の強い人で、現場を見ることを大事にしていました。「情報って取りにいかないと集まらないんです」。

神奈川県は2020年3月上旬、コロナ感染のため、病院の窓口がどれだけ閉じたか把握できていない時がありました。畑中氏は情報収集に努め、神奈川県の現状をわすか10日で把握。畑中氏を買っていた当時の副知事に進言し、今ではよく聞く病院の「選択と集中」を出しました。

また畑中氏は副知事に提出後、当時の橋本副大臣や自見政務官とも会い、自分が考えた案を彼らに認めさせた事も書かれています。DP号で政府代表として指揮した2人の政治家は意味をすぐに理解し、当時の横倉日本医師会長と会わせて話を進める事に。横倉会長は畑中氏の案を相当気にいりました。最終的には神奈川モデルに国や医師会などの後押しも付けて実現します。

神奈川モデルを決める時、医師ではない畑中氏は県内の病院長にはよそ者でしたが、助け舟を出したのがDP号で指揮した阿南医師。会議の後の方で補足意見を述べて、畑中案に阿南所見を付けて最終決定します。神奈川県の会議にはDP号で活躍した厚労省の堀岡氏もおり、堀岡氏が厚労省に持ち帰ってこのラインで国の方針が実質決まりました。

DP号で色々意見はありますが、あの経験が元で日本のコロナ政策の基本が決まった事は、コロナ禍で苦しむ多くの国民に知られて欲しいと思います。現場での優先順位と、遠くから言うだけの人から見た優先順位は違うことは、船会社で船員を管理してきた私にもしっくり来ました。と同時にこの背景を知らずに政策批判する政治家や言論人が多いのは嘆かわしいとも思います。

ここまでご覧下さり、ありがとうございました。次回からはまた別のネタにします。現時点ではスエズ運河事故にするつもりです。

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