【長編小説】異邦人 #12
社員旅行
規模にもよるが社員旅行を合同でやるのは珍しくはなかった。十月半ばになり、今年はレンの働いている懇意の印刷会社と合同で中型バスを二台借りてビーチに行き十棟ほどのヴィラに各五人づつ泊まる二泊三日の日程だった。出発前部下に節度を守って楽しむようにお灸をすえたが、バス内はカラオケ大会になった。流行りの歌なのだろうがほとんどわからなかった。
彼辞めたんだって? と言ってバスのとなりの座席にレンがどさっと座り込んできた。まあまあ、お互い独り身同士ね。と断りを入れて。
なんで辞めたの?
この曲わかる?
わかるよ、当然でしょ。
彼にはやりたいことがあるらしいよ。
バスの外は晴れていたが、到着まで三時間、すでに寝てしまいたくなった。寝たフリでもいい。缶ビールを飲んで、電子タバコを吹かした。暑くなるが窓を開けて騒音を攪拌させた。
レンは乗り出し、窓を閉めてしまう。出発前にも塗ってきたのだろうが、日焼け止めを身体中隈なく塗りたくっている。
やりたいことあるってすごいね。
最近、どうなんだ? 付けたアイマスクをわずかにズラして尋ねた。
仕事は良い感じ。
そっかぁ。
きみはどうせあれでしょ。
変わりないよ。
きみは男のクズさを凝縮したような男だからなぁ。
それ言い過ぎじゃない?
なんで? 傷つきたくないなら恋愛なんかすんな。苦しいならさっさと別れろ。自己憐憫なんてくそくらえ。でもそうだよね、それで別れられたら簡単だもんね。言い過ぎたかも。ごめんね、お詫びにこれあげる。と言ってチョコレートを差し出した。私はチョコレートの捻れた銀色の包装紙を丁寧に剥き、口に放り込んだ。甘酸っぱい味だった。
あのなぁ、この旅行だって自分とそちらのトップと話し合って企画したから、できているわけだよ?
でも、予約とかの準備ぜんぶあたしがやったもん。手鏡を確認して、よしオーケーとつぶやいた。
バスを降りて、もう一台のバスに乗っていた印刷会社の代表と経理処理について再確認し、とりあえずヴィラに荷物を置いてきましょう、近くのスーパーへ食材の買い出しに四名づつ向かわせまして、残りの下っ端にバーベキューの設営、十四時になりましたら、砂浜に集合しましょうと取り決めた。
ヴィラで時間まで午睡した。
ビーチサンダルを履いて重い足を引きずるように、海岸線沿いの果てまで続く灼熱の道路を横断し、椰子林の隙間から落ちる光の影を踏み歩いて浜に出ると、指先から這いあがる砂をすでに洗ってしまいたくなった。すでに汗がシャツに模様をつけ磯の臭いと混じっている。砂浜にあるパラソルの下で水分補給をした。人はまばらだった。
買出し組は大量の食材とビールを運び終え、調理組が肉と海産物を焼き、女性社員がプラスチックのコップを配りビールを注いでまわった。
海に少し浮かんでパラソルに戻ると、となりに座る印刷会社の代表から十年前の街の話を聞かされた。あのときは道端で老婆が糞をしていました、川に人糞が流れていました、その横でおじきが釣りをしてました、川から流れてきた土左衛門を釣竿で手繰り寄せていました、今より十倍の立ちんぼがおりました、命の価値は十分の一でした、と話しながら彼は焼き魚をつついた。ほんとう、綺麗な街になってしまわれました。私は手の長いエビを食べた。
いつもうちの部下がお世話になってます。と代表は言った。
いえいえ。私も知人は少ないものですから。
彼女は器用貧乏なんです。二つのアイデンティティを持っているが故に、誰とも仲良くできる半面、誰とも心を真に通わすことができないんです。
急激にぬるくなったビールに氷をぶちこむと、ビールがわずかに溢れた。
なんとなくわかるんですが、あなたの言っていることは、……と言いかけて、やめた。それにしてもどうしてこの街に?
旅行に一度来たときに惚れこんでしまいましてね、裸一貫で会社を立ち上げ、現地の妻をめとりました。
焼けた砂の上で膝を丸めているレンが見えた。ツバの大きな帽子を被りサングラスをかけている。さっきまでは近くで海や自身の写真を熱心に撮っていた。私は背中に向けて砂を蹴っ飛ばた。やめろよと吠えて、
しょうがないよ。見ている景色がちがうんだもん、文字通り。見ている色もちがうんだよ。同じ言葉でもちがうことを連想して、どうしようもないズレがあるんだ。
彼女は海と空の境の線を見つめながらつぶやいた。
きみのとこの社長はなんにもわかっちゃあいない。
彼女がどこを見ているかわからなかった。水平線をながめているのかと思っていたが、あるいは線に呑まれゆく船を、なのかもしれない。
きみもね。とつぶやいた。
ズレてズレてズレて、もしかしたらとんでもなく大きな誤解をしてしまっているのかもしれない。ふと思った。
好きになったのがきみだったらどれほどよかったんだろう。
てめえ、好き勝手に言うな。
そう吠えて、砂をつかみ投げつけた、
選ぶ権利もないくせに、勝手にあたしを振るな。
薄手のパーカーを放り投げ、
泳いでくる。
ここの海、急激に深くなるから気をつけて。という声は聞こえていないようだった。
熱を帯びた身体を冷水のシャワーで洗い流し、ほとんど身体を拭かずに白いベッドに飛び込んだ。シーツに自分をかたどるように染みができていく。自分自身が溶けでてしまったようだった。下げすぎた冷房で急激に冷えていく。
着信が鳴り響いて起きた。二十時だった。レンは、今から遊びに行くぞ! と電話口で張り切った。
ヴィラの前で暇をしていた男三人と女二人を引き連れ、近くのバーに行き、クラブに行き、さんざん飲んだ。二○ほど座席が広がるフードトラック前で、海鮮焼き飯を食べた。
路上で少年が火を吹いていた。ペットボトルに入った液体、それはガソリンとのことだった、を口に含み噴射し、飛龍のように火が飛んでいった。
レンは、最高! と叫び、ため息を吐き、アイツと一緒に来られていたらなあ。と嘆いた。
道端には二本の手だけで徘徊する乞食がいる。地雷で両足が吹っ飛んだのだろう。火吹き少年へお布施が投げられ、足無しの障碍者の胸ポケットに金を捻じ込んでいく者たちもいる。
障碍者やルンペンが子供という定義にあてはまってもおかしくないと思った。両方とも庇護される存在なのだ。ただ愛される対象であるかは本人次第である。本人という人格を求められてしまうが故に、子供であるのと同時に大人でもあり、その存在を許容するために社会が新たな別概念を構築していくわけだ。彼らは笑顔に代えて自己満足感を提供してくれる。
きみはいったい相手に何を提供したんだ?
と彼女に訊いた。
愛。と彼女は答えた。
きみはさぁ、と彼女はポキ丼を食いながら言った。餌をやって懐いていた猫が噛みついたのが気に食わないんだろ。きみが与えられるのは餌だけだよ。食べ残された餌の意味も考えず新しい餌に取り替えるだけ。さらには量を増やしちゃったりすんだ、
きみは故郷を捨てたんじゃない。捨てられただけなんだ。だからここにいるんだ。そんなやつがここに根を張っているやつを幸せにできるわけないんだ。
気も漫ろで卓上の殻にくるまった海老の白い身をほぐしていた。つついて、ほぐして、ぼろぼろになったカスを寄せ集めて、箸の先に乗せて口に入れた。
となりの宅で老人同士が言い争っている。卓を叩き、何事かと店員や客が集まりだしていた、
なんて言ってるの彼は?
国の将来を嘆いているよ。
それ聞かれたらまずいんじゃない?
内容的にはギリセーフ。
口論が激しくなり、ビール瓶片手にとつぜん立ち上がった老人が相手のあたま目掛けてその手を振り下ろすのが、私の目がスローで捉えた。
女三人はヴィラに戻り、男衆三人と置き屋に行った。私には出っ歯のセイウチみたいな女がついた。
エアコンもない蒸し暑い個室に入ると、顎でパンツを脱げ、シャワーを浴びろ、と指示され言う通りにした。
ベッドのシーツは染みだらけだった。端に腰をかけシーツを撫でるとわずかに濡れている。虱、があたまによぎり全身が痒くなってきた。女もとなりにどすんと座り、ベッドが傾いた。手を近づけられるに従い念動力のようにそのまま仰向けにされてしまうと、その巨漢に見合わず優しく乳首を舐められ吸われ、酒に酔っていて無理だと思っていたのに天を衝いたそれに屈辱を覚えた。顎で胸を揉めと合図があり、下乳と腹の肉襞の中に手のひらを差し込み指をなんとか動かすが、重量に耐えかねた泥のような下乳を支えているようにしか見えなかった。仕方なく女の乳首をつまみにかかるが、そのイボのように硬く隆起する乳首に触れた瞬間NOと声を張り上げるだった。節くれだった手が私の胸板から腹をなぞるように撫でる度、乾燥した指の皮膚の毛羽立ちのせいで摩擦が激しい。女のたるんだ腹の下の暗闇のなかにはすでにパンツがないことがわかったが(あるいは黒いパンツだったのだろうか)、それは意味のない気づきだった。目を瞑り、されるがまま上下に動かされる感覚だけに集中した。
枕元でスマホが振動していた。
無視していると何度もかかってきた。ニシさんからの着信である。仰向けのまま四度目で出てみると、膨れた顔の女の声だった。慌てているようだ。ニシさんの携帯を使っているということは、そういうことなのかと合点がいった。
今すぐ来てほしいの。と彼女は言った。
無理だよ。私はペニスを口に含まれ吸われながら言った。
わたしこんなとき、どうしたらいいかわからなくって。
鼻を啜るような嗚咽が電話の向こうで混じって、下腹部で喉奥に詰まらせたのか野太い嘔吐きが時折混じる。
激しい吸引音を聞かれないよう、電話口を枕に押しつけた。
とにかく、もう電話してこないでくれ、と仰向けのまま言って電話を切った。
もう一度電話が鳴った。切ろうとしたが通話ボタンを押してしまった、膨れ顔の女の声が枕元の電話口から聴こえた。
ニシさんが首を吊ってるの。
私は女の口のなかで射精した。
次の日は一日フリーだった。布団のなかでだらだらし、昼に市場に行って蟹を食べて、夜は海辺を散歩した。湿った砂のなかに歩く度にずぼと足を突っ込み、寄せては返す冷たい白波が山盛りになった砂をさらってゆく。するとまた私は歩きだし数秒で消え去る黄金色の山をつくりながら歩みを進める。私の歩みに、足跡はない。闇に同化した海に船と対岸の埠頭の光が煌めいていた。星が海に落ちたのかと思ったが、私が空に落ちたのかもしれない。
膨れ顔の女は指示通り警察と救急を呼んで対処した。彼は身寄りがいなかったので、それで終わりだった。
一際輝くビーチバーにたどり着いた。カウンターで飲んでいると、印刷会社の若い女の子二人と合流し、砂浜におかれたテーブル席で飲むことになった。砂に直置きのビーズクッションに座り、ローソクの灯りと、激しい音楽とともに回るミラーボールの光のなか、二人の仕事の相談にのった。吸い殻を線香のように砂の地面に突き刺していった。女の子の愚痴が終わるころには地面に五本の線香が立っていた。
二○時半になると、共有チャットに連絡がきてみんなで集合することになった。三○人ほど集まり、みんなでカラオケに行った。レンのすがたはなかった。先ほど一緒に飲んでいた女の子の一人が私の肩に寄っかかって沈んでいた。
深夜二時過ぎ、海沿いの食堂に入って、またビールを飲んで、蟹の鍋を食べて、シメに蟹の身を米と一緒にかっこんだ。あまり美味しくなかった蟹は、腹だけを満たした。
翌朝、帰りのバスでレンは私の会社の女の部下のとなりに座り、よく笑っているのが見えた。車内はカラオケ大会になっていた。