彼女の宇宙 その5
白い星、赤い星、青い星、おたがいに回り続ける双子の星、それは連星っていうんだって、ピンク色のガスのかたまり、青緑色のガスのかたまり、まっくろなガスのかたまり、暗黒星雲っていう、銀河の真ん中から縦にガスがふき出しているのとか、銀河と銀河がぶつかっているのとか、そういったものをたくさん見た、たくさんの星たちが通りすぎていった、それとも私が通りすぎていったのか、宇宙になった私はどこへ向かっていんだろう、
さて、と隣の席の男の子が言う。
じゃあ、始めようか、男の子は白衣を着て、高校のどこか、私の知らない教室の黒板の前に立っている、私は一番前の席に座っていて、教室にいるのは二人だけだ、私が手をあげて、はい先生、わかりました、と言うと男の子は手を振りながら、先生はやめて、と恥ずかしそうに言った、それじゃあ、話をしよう。
アマノは、宇宙になるってどういうことだと思う?
大きくなる、
宇宙はどこにある?
こことか、そことか、私は机の上とか黒板とか、それから窓の外を指さした、あそこも、
今いる空間全部?
そう、
じゃあ、アマノは今いる空間全部になったんだ。
うん、
地球もアマノの中にある。
地球は宇宙の中にあるから、
僕もアマノの中にいたりするの。
私は男の子を見た、彼の黒い瞳の奥で、いくつも星が光っているのが見えた、生まれては消え、ぶつかりあい、爆発し、うずまいているのを見た、気がした、私は視線をそらす、たぶん、と小さな声で言う、
じゃあ、アマノもアマノの中にいる?
私は、いない、
なんで?
私は宇宙になってるから、私の中に私はいない、
と言いながら、本当にそうだろうかと思った、くちびるにさわることもできるし、たくさん星ぼしを見ている私は、宇宙なのか、それとも宇宙の中の私なのか。
アマノは宇宙になったけど、アマノだろ?
私たちは満天の星空を見ていた、寝転がって、腕にビニール敷きもののちくちくした感触があって、髪の毛があたってさりさり音を立てた、湿った土と草のにおいがした、小さな光の点が下から上へゆっくりとのぼっていった、なにあれ、飛行機? ちがうよ、人工衛星、左隣、頭の後ろで手を組んで、寝転んでいる男の子が言った、天の川も見えるだろ、もうだいぶ西にかたむいてきたけど、あそこにあるのが夏の大三角形、と指さした、星がたくさんあるね、という私は小学生みたいで、もっと暗いと思ってた、とごまかすように言った、私が見てきた宇宙はもっと暗いところも多かったからだ、
宇宙はシャボン玉がたくさんくっついた、立体の網の目みたいな構造をしてて、星が集まっているところはほんの少しで、あとは星がない暗い空間が続いてるらしいよ、と男の子が言う、地球のまわりは星が多いから、こんなふうに満天の星空が見える、
地球は太陽系の中にあって、
太陽系は同じような星がたくさん集まった銀河系の中にあって、
銀河系は銀河団っていう銀河の集まりの中にあって、
それがシャボン玉の膜、網の目の網を作ってるんだ。
へええ、なんか大きすぎてわけがわからないね、考えるだけでどんどん遠くになっちゃうね、
そうね、それが考えることのすごいところよね、と右隣で寝転ぶイシダさんが言った、これは聞いた話なんだけどね、と左手のひとさし指をぴんと立てて、
ある有名なSF作家さんが、子どもさんにこう言ったの、あの星を見てごらん、あの星の光は何万年もかけて私たちのところに届いているんだよ、想像してごらん、そうすると、君が考えている速度は、光の速度を超えている、って。
わたしたちは宇宙の果てについて考えることができる、光が何億年もかかって届く距離のこと、それは果てしなく遠く感じられるけれど、わたしたちの思考は、言葉は、その果てしない距離をぴょんと飛びこえられる、言葉だけが宇宙の果てをこえることができる、そして向こう側にいる誰かに送ることができる、届いているかどうかわからないし、返ってくる答えも、本当かどうかわからないけれど、けっきょくは、自分自身が本当だと思うかどうかだけなの、
気がつくと私とイシダさんは、こはく色の水の底にしずんでいた、寝転がったままで、ぐるりと丸くはりめぐらされたガラスの壁、上のほうで浮かぶ透明なブロックみたいな氷が、くるくるからから音を立てているのを見ていた、息をしようとして口から泡が出て、いい香りが肺に流れこんで、ああこれはいつかの喫茶店の紅茶だなって思った、
隣にいるイシダさんに尋ねる、私は本当に宇宙なんでしょうか、
イシダさんの声が水の中でもやもやと響く、なにかおかしいなって思ったの?
いいえ、なんとなくですけど、
べつに根拠がなくてもいい、疑問に思うこと、疑うことからすべては始まるの、疑問が生まれたらもっと突きつめてみましょう、わたしとはなにか、宇宙とはなにか、疑って疑ってもう一回おまけに疑って、疑っても揺るぎないところまで考えたら、あとは信じるだけ、だって、疑っているってことは、疑っている自分自身を信じているっていうことでしょう、
信じるって、信仰じゃなくて信念、信じたって救われないけど、基礎くらいにはなる、地面ができれば、その上に立つこともできる、
アマノさん、
あなたはだれ?
あなたはどこからきたの?
そして、どこへいくの?
私は、
真っ暗になった、イシダさんも、紅茶のグラスも、男の子も、満天の星空もなかった、何もない、真っ暗だ、と声に出して言った、気がした、よく考えると不思議だった、何もないのは何もないはずなのに、何もないって言うと、何もない、があることになってしまう、矛盾してしまう、それはどうしてだろう、何もないって言ったから、何もない、が生まれた、何もないところに私が、何もない、って名前をつけた、
名前をつければ、それが生まれる、それが何かだと思うだけで、認識するだけで、たとえば、
青い空、
青い空に白い入道雲が浮かんでる、かき氷、青いシロップのかかった、もうだくだくのどろどろだ、空が雲を溶かしていく、水になる、水面、波うつ、石がはねていく、平たい石、一二三四ってバウンドする、河原で、丸い石、三角の石、草の上のトンボが飛びたって、空中で止まるみたいに、空を泳ぐみたいに、空は海、夕焼け、二つの夕日、砂浜にあとを残す波、貝がらが転がってて、風が吹く、だんだん強くなって、雨のにおい、雷、夕立、はりつく制服の袖、汗、セミの鳴き声、風鈴、扇風機でああああってやってる、畳のにおい、大きく切ったスイカ、打ち水したあとのじゅわじゅわって音とアスファルトのにおい、夕涼み、蚊取り線香、浴衣でお祭り、打ち上げ花火があがる、
真っ暗な宇宙の中で、言葉に照らされて浮かび上がる、たくさんのものたち、とぎれとぎれのイメージ、のあいだを、私はさかさまになって落ちて、浮かんで、とけて、にじんで、まざり合いながら、ただよって、
上下左右前後ろ斜め四十五度、止まらない方向、動かない時間、ピンぼけした輪郭、ゆらぐ境界線、
どこからどこまでが私で、
どこからどこまでが私以外なのか、
わからない、見えない聞こえない触れられない、
これじゃ、きりがない、順番をまちがえたんだ、イシダさんの言っていたことを思い出す、名前をつける前に落ち着かなきゃ、名前をつけている私を、どこかに落ち着けよう、
私はだれなのか、私はここにいるのか、疑う、疑っているのは誰、私、私を疑っている私を疑っているのも私で、どうどうめぐりだ、どこまで疑っても、疑う自分が存在してしまっている、信じるとか信じないとか以前に、どうしようもなく存在している、
私はここにいて、
私は私で、
私は宇宙でもあって、宇宙ではない、
私と私以外のものに境界線をひく、それは私の中にもあるけれど、私の外にも存在していることを信じる、宇宙の果て、事象の地平線、それは私の形をしている、私もまた、私の中に存在していることを知る、
輪郭を持った私は二本の足で立っている、どこに、ここに、足もとから地面があらわれ、広がっていく、遠くに私の家が湧き出して、近所のパン屋さん、コンビニ、喫茶店、郵便局、図書館とそれからたくさんの家が、街が、山が、生えてくる、私の立っているそばにも、線が何本ものびてきて、四角にとり囲まれる、長くのびた長方形、学校の校舎、教室、あぶり出しみたいに、目の前に壁が、黒板があらわれて、
私は立っている。
黒い宇宙が真ん中でぱっくり割れて、光が水みたいにあふれだした。宇宙はすぐに光でいっぱいになった。真っ暗だと思っていたのは、私のまぶたの裏側だったらしい。
知らない教室だった。
でも、ここには来たことがある、と思った。
真夏っていうほどには暑くなくて、カーテンをひらひらさせながら入ってくる風も、だいぶ涼しく感じられる。窓の外の空が真っ青で、色鉛筆でちょっとだけひっかいたみたいな雲が薄くかかっている。トンボが群れをなして飛んでいて、セミの声は聞こえない。もう夏は終わってしまったんだろうか。
手のひらを見る。ぐーとぱーをくり返してみる。私の手だった。これは、私の手、とつぶやいてみる。
うーん、とうなる声がして、びっくりしてそちらを見ると、男子生徒が一人、机で突っ伏して寝ていた。隣の席の男の子だった。ということは、ここは天文部の部室だったんだ、初めて入ったなあ、と思っていたら、またうなった。寝苦しそうだ。暑いんだろう。
おーい、ただいまー、と声をかけてみてもちっとも起きない。きょろきょろとあたりを見まわす。誰もいない。天文部員が彼一人って、本当なんだ。せっかくだし入部しようかな。ぼんやりしていたら、教室の端っこに貼られているポスターが目に入った。銀河をうつした写真だった。
あれも私なんだなあと思って、
瞬間、ぶわっと風が来た。
もう戻れない、と思った、半分、一部分かもしれない、それは、向こう側に行ってしまった、もう戻れない、さよなら、宇宙、さよなら、私、
そんな、少しさびしいような、戸惑うような感覚が、とつぜん吹きぬけていった。けれど、何のことかよくわからなかった。とても大切なことだった気がするんだけれど。思い出そうとすればするほど、思い出せなくなるみたいなもどかしさだけが残った。
そうだ、彼が目を覚ましたら、ケーキを食べに行こう。駅前のネプチューンのサバラン。いっしょに来てくれるだろうか。
ねえ、起きてよー。
それにしてもどうして忘れていたんだろう。
私は男の子の名前を呼ぶ。
「ミズタニくん」
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