【インタビュー】水沼朔太郎

今回は(一年以上前から、お名前は認識していたし
歌集の相互評記事なども読んではいましたが)今月になって急に気になりはじめてきた
水沼朔太郎さん(https://twitter.com/smizunuman?s=09
)に、お互いの観測範囲や興味の対象・読みのアプローチが
違いすぎるということはないけど、違う(と思えるからこそ)
椛沢知世の短歌連作「りんごの味」
https://utatopolska.com/entry/ss-kabasawatomoyo/
について、インタビュー(2019年12月21日-22日)しました。


【檸檬】
まず、水沼さんは「<つつ>なし短歌における接続と因果の問題--青松輝ららら♪一首評」
https://note.com/mizu0826saku/n/n19f179f7bcc7
にて「わたしは短歌から<つつ>が消えてほしいと願っている」とまで言っていて、もう少し詳しく理由が知りたいです。
また、<つつ>を使用しない、あるいは<つつ>に準ずる感覚を付与しない短歌は
近ごろの用語だと「シームレス」(現代短歌社賞の選考会にて、頻出していました)ということになると考えていますか?

【水沼】
この一首評を書いたのは今年の1月だったのですが、実はこのあとみずからの作歌で〈つつ〉を使うようになりました。「稀風社の水辺」で読める歌だと

  口内炎治りつつあるいよいよ歯医者に行くタイミング 髭伸びてるわ
  涼しさと人の多さを天秤に掛けつつ乗り込む弱冷房車

などがあります。わたしの中で一番記憶にあるこの〈つつ〉はどうなんだろう?の一首は大森静佳『カミーユ』の帯にも記されていた〈曇天に火照った胸をひらきつつ水鳥はゆくあなたの死後へ〉でした。『カミーユ』には他にも〈唇(くち)もとのオカリナにゆびを集めつつわたしは誰かの風紋でいい〉という歌があったりします。現在は使うようになったけれど、なぜ、わたしが〈つつ〉を警戒するかというと〈つつ〉は一見客観的に並列性を表現しているように見えるけれど実のところその並列性は作者によって意図的に並列性をまとわされているからです。他方で、おなじようによく引用される歌で〈かわるがわる松ぼっくりを蹴りながらきみとこの世を横切ってゆく〉〈ずっと味方でいてよ菜の花咲くなかを味方は愛の言葉ではない〉の〈ながら〉や〈なかを〉は〈つつ〉に近いような接続語でありながら歌の時間と作意の時間(とでも言うべきでしょうか)とが矛盾なく成立しています。このことから〈つつ〉にはある種の力技的な効果があることがわかりましたが、その力技的な効果を少なくとも当時のわたしは良しとはしなかった、ということです。

『現代短歌』2019年1月号の第七回現代短歌社賞の選考座談会をざっと読み直してみたら「シームレス」よりも「シンタックス」が、主にその崩れや破れ(辞の断絶)の文脈で頻出していました。負荷を掛ける、みたいな話ですよね。実は書きながら自分でもこんがらがったのが、はじめわたしは〈つつ〉は並列的(=シームレス?)な接続語だと思っていたのに書いてみたらそうではなくて接続に負荷を掛ける接続語だということがわかりました。ですので〈つつ〉なしで負荷を掛ける口語短歌、という文脈で「シンタックス」の崩れや破れを理解しています。もしかしたら「シームレス」をあんまりちゃんと理解できていないかもですが〈昼過ぎにシャンプーをする浴槽が白く光って歯磨き粉がある/仲田有里〉のような短歌を「シームレス」と呼ぶ、みたいなイメージで大丈夫ですかね……?


【檸檬】
今後、自分が<つつ>を認識していくのに、いったん大森静佳は(大森にある「生前」の意識も含みつつ)無視できないと思っていて。
実は、第一歌集『てのひらを燃やす』にある「Ⅰ」(全部でⅢまであり、だいたい同じ数ずつの短歌が収録されている)に<つつ>を含む短歌が頻出しているのは分かっていて。
自分が確認したところ「Ⅱ」にはなく「Ⅲ」には二首で、意図的と考えられるのですが。大森静佳は大森静佳で、そこを言及していきたいと思いつつ、それはそうとして。
同じような傾向として挙げられている<ながら>と<なかで>ですが、それぞれ<ながら>は同時進行で<なかで>は今の時間なんだけど<つつ>は距離感があると認識していました。この認識は不十分なのですが、
〈口内炎治りつつあるいよいよ歯医者に行くタイミング 髭伸びてるわ〉〈涼しさと人の多さを天秤に掛けつつ乗り込む弱冷房車〉
の二首は、接続されている要素が非常に近い<つつ>ですね……
作為のことを言うと<つつ>は、いろいろな要素がある(はずの)ところから任意の部分だけを抜き出した
という警戒でしょうか。なんというか、水沼さんと作為の方向が別のように感じます。

『現代短歌』2019年1月号の第七回現代短歌社賞の選考座談会での「シンタックス」は、瀬戸夏子を意識してのなのでは……?と感じてすらいて。
とりあえず仲田有里の短歌で、自分とも「シームレス」の認識は同じと思います。
この「シームレス」で自分が何を言いたいのかと言うと、短歌全体で瞬間を捕らえた短歌を求めている(求めていた)のでしょうか?


【水沼】
〈つつ〉の話はちょっと一旦置いておきます(大森さんの第一歌集のⅠ章に固まっているというのは興味深いですね)。

〈シームレス〉についてなのですが、うーん……〈シームレス〉をレトリックの用語として理解した場合にはわたしが挙げた仲田有里の歌が該当するのかと思うのですが、『現代短歌』誌上で使われていた〈シームレス〉はもっと一般的な用法というか、〈シンタックス〉の崩れに対しての「破綻のない歌」ぐらいの意味合いだとわたしは読みました。ですので、そこから「短歌全体で瞬間を捕らえた短歌を求めている(求めていた)」という問いを導きだすことには疑問があります(ある時期までの短歌と瞬間については『率』3号で藪内亮輔が書いていた文章が参考になるかと)。また、主に阿木津英が発言している「シンタックスの崩れや破れ」(辞の断絶)についてももちろん瀬戸夏子の歌群も視野に入っているだろうけど、北山あさひの歌のレベルの断絶ですら阿木津さんとしては短歌が滅びないためには許容できないことがあるということをこそ考えなければいけないと思います(まだ、ぱら読みしただけなのですが、最新の『短歌研究』の作品季評での佐佐木幸綱による中野霞の受賞後第一作への発言もおなじ問題を抱えているように思います)。


【檸檬】
すんなりと一直線に意味が受け取れる、たとえば工藤吉生に言及されるような「シ―ムレス」で思っていましたが
一首のなかで〈つつ〉のようなことをすると、二つ以上の時系列が同時に発生するような感覚があって
パラレルを接続するという感じなのですが、一首が内包する時間間隔が拡がることはないでしょうか


【水沼】
カリフォルニア檸檬さんがおっしゃった〈つつ〉の効果は〈つつ〉のイデアと言いますか一番の理想のかたちなのだと思います。が、短歌で、とくに上句と下句をつなぐ位置で〈つつ〉を使うと自然さよりも短歌の接続ぽさが前面に出てしまう印象がありそこを警戒しているのかもしれません。ですので、一番最後を〈○○しつつ〉みたいなかたちで締めることにはあまり抵抗感がなく、また、こちらのかたちをうまく使えれば宇都宮敦のような複線的な歌が作れるのかなと思ったりもします。


【檸檬】
連作「りんごの味」から好きな短歌を挙げるなら、どれですか?


【水沼】
みどろいろのエノコロもきんいろもないわたしの声で野良猫を呼ぶ/椛沢知世

〈きんいろもない〉は〈きんいろ(のエノコロ)もない〉の省略なのだと思うのですが、それよりも〈きんいろもないわたし〉と〈わたし〉に掛かっていくかのような流れが好きです


【檸檬】
この「ないわたし」の印象としては「(持ってい)ないわたし」という感じでしょうか


【水沼】

みどりいろのエノコロもきんいろもないわたしの声で野良猫を呼ぶ/椛沢知世

この歌は縦書きで読んでからおもしろいと思うようになりました。最初の返答のときに〈きんいろ(のエノコロ)もない〉と括弧で語句を補ったのですが、読んでいるときの体感としてはいきなりエノコロとは別の文脈で〈きんいろ〉が出てきたかのような語順がおもしろくて直後に〈もない〉があるのだけど、むしろ〈みどりいろのエノコロ〉と〈きんいろ〉が〈もない〉の緩やかな否定の修辞によって幾らかはあるようなイメージで〈わたし〉に掛かっていく。そこがいい。完全な見せ消ちだとおもしろくないと思います。


【檸檬】
連作の中盤に、同じ単語が使用された短歌が三首つづけてあるのですが

指で押す指よりひろく黒ずんだアボカドそういうものと知ってる
木曜日のひびきが好きで有休をとるなら木曜日に休みたい
はちみつ入り黒酢飲料はりんご味ふたくちめからりんごと分かる

この使用法について、どうでしょうか。


【水沼】
言われて気づいたぐらいですが、結果的におなじ単語を使っていた、ぐらいの印象です。1首目と3首目は繰り返しというよりは位相をずらしているような使用方法ですが、その位相のずらしにあまり好ましくない作意というか、短歌を作りにいってるなという印象を持ちました。


【檸檬】
この単語使用に、ときめき感があるというか個人的な
おもしろがりポイントがあったのですが、位相をずらす
一回目と二回目で、つかい方や意味合いが変わっている
ここに時間や意識の「更新」の試行がある、という印象なのですが
短歌の〈刹那〉性って、あやうく〈停滞〉にもなってしまう
それは〈永続〉や〈維持〉ではないをしているため、で
なんというか〈停滞〉を脱却する方法の提示がされている
ように感じるのですが、どう思われますか?


【水沼】
〈停滞〉を脱却する方法の提示がされている、というのはなんとなくですが、わかります。しかしながら、そんなに一首一首〈停滞〉から脱出されてもな……ということも同時に思います。一首でかならずしもなにかが起きなくてもいい、起こそうとしなくてもいい、起こっている前提で読もうとしなくていいと。


【檸檬】
そう言われてしまうと、それはそうですねとは思いつつ
どこかで、ちらっと「何も言っていない短歌」を、おもしろがられているのを
観測した気がする……くらいの認識で、個人的に少なくとも2019年の今は
そうじゃない短歌が読みたい、という希求が(自分の中に)あるように感じつつ

一回では分からない、為せない、伝わらないから
何度も試みなければならない、という言説があったりして
一回で、やりきれるほどの強度があれば問題ないのでは
というのも、それはそうではあるのですが

連作を通してなのですが、
例えば、一首目二首目では

タピオカに生まれるはずが間違えたようなニキビを眠るまで触る
手首から慣れないにおいいいにおいいつもより顔まわりを触る

と、しつこく(自分自身の)顔を触っていたり

立ち止まるわたしを水溜まりのように人が避けてゆくよありがとう
ベッド下にたくさんのノートがあってわたし日記の上で寝ている

には、停止していたり蓄積が意識されていたりするのを
踏まえて考えたくなってしまいます、これは「連作を読む」という意識なのですが
そのあたり、どうでしょうか。


【水沼】
連作を読む、ということだとわたしは

目がかゆいのは春か秋 友だちの誕生日だいたい覚えてる

の〈友だちの誕生日だいたい覚えてる〉の差し出し方……このフレーズ自体は魅力的なのだけど、おなじように魅力的である〈目がかゆいのは春か秋〉と並列させて一首にするのが良かったのかどうか、

かわいいと人に言われてつぶやけば口からスクランブル交差点

本来はある程度の時間の蓄積があったはずなのに〈かわいいと人に言われてつぶやけば〉の定型に収めたがゆえの時間感覚の消失、などに気が向かいます。わたしの感覚だと〈目がかゆいのは春か秋〉であること〈友だちの誕生日だいたい覚えてる〉こと、〈かわいいと人に言われて〉から〈つぶやけば〉までの時間についてもっとその時間を読み手であるわたしがおもう時間が欲しいです。それは翻ってもう少しその表現に作り手がとどまって欲しいということです。作り手と書いてしまったけれど、これはあくまでも作品の時間から感じたことです。

立ち止まるわたしを水溜まりのように人が避けてゆくよありがとう

〈ありがとう〉もおなじです。

指で押す指よりひろく黒ずんだアボカドそういうものと知ってる

〈そういうものと知ってる〉そのことをもう少し丁寧に扱ってほしい。

もちろん、〈ありがとう〉や〈そういうものと知ってる〉に修辞的な意欲があることはわかるけれど、いまのわたしはこういった言葉の差し出し方にのりきれないです。〈触る〉で終わる歌がふたつ続いてこの連作ははじまるけれど、こういった表現はどこか触れる直前で手放してしまったような感覚があり、もちろんこういった言葉の手放しーー服部真里子や平岡直子や相田奈緒などーーによるポエジーの短歌史的な系譜はあるのだけれど、それでも、いや、だからこそ、手放してほしくなかったな、と。

【檸檬】

木曜日のひびきが好きで有休をとるなら木曜日に休みたい/椛沢知世
この〈木曜日に休みたい〉の〈に〉にinみたいなニュアンスが韻律によって生まれてるのすごいな
https://twitter.com/smizunuman/status/1205098406273638400?s=19

というツイート、完全に同意なのですが
このinが生じる要因は、下の句の「とるなら木曜/日に休みたい」の句またがり
そして「日」に力が入ること、にあるのではないか
と考えているのですが、どう考えていますか?


【水沼】


木曜日のひびきが好きで有休をとるなら木曜日に休みたい/椛沢知世

わたしがこの歌を読んだときに思い浮かべたのが〈初鰹の日に君を芝生に招待して飽きるほど青空に出会いたい/堂園昌彦〉(「特集 30代歌人の現在」『短歌往来』2017年8月号)でした。堂園さんの歌とは句跨がりの力点が違うのだけど構文的な類似性を感じました。(公開時のシステム上の問題で)わたしは横書きではじめ読んだのですが、そのときの感覚を思い返すと〈木曜/日に〉ではなくて〈木曜日に/休みたい〉のような感覚で読みました。〈とるなら木曜/日に休みたい〉ではなくて〈有休を/とるなら/木曜日に/休みたい〉ということです。〈木曜/日に〉の句跨がりは縦書きの方がはっきりわかる感覚がありますが、結局わたしの読み方も〈日〉に力点が入ってることには変わりないのかな。最後に、横書き/縦書きでさいきん関心のある歌を一首挙げます。

くしゃみひとつ堪えたるとき胸に散るしぶきつつ散る花なり葛は/狩峰隆希(「ひとまる2」)

偶然ですが、この歌にも〈つつ〉があります。この〈つつ〉にはあまり力技的な効果は感じません。これが本来の?〈つつ〉なのでしょうか。


【檸檬】
せっかくなので、このツイートについてなのですが


https://twitter.com/smizunuman/status/1205298431037558785?s=19
句跨がりに意味や意図を読みにいく読み方はここ数年の短歌だとあまり有効ではないような気がするけど一般的にはどうなんだろう。最後の五音で落とすタイプとかむしろ五×六(七)と四×八とのあいだでいろいろ起こっているのではないか

個人的には、
「ここ数年の短歌だとあまり有効ではないような気がする」
を気になっているのですが、実際どういうところですか?
どちらにしろ、読者が作者の意図を迎えに行くというような発想ではあると思うのですが……


【水沼】
あ、このツイートはいつだったかのカリフォルニア檸檬さんが書かれた『風にあたる』についての文章を読んだ直後に書いたエアリプというよりは連想みたいなものなのですが、そうですね、たとえば堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』の句跨がりだとそれこそ負荷を掛けるような句跨がりがあり〈秋茄子を両手に乗せて光らせてどうして死ぬんだろう僕たちは〉句跨がりが一種のブリッジとして機能していると思うのですが、山階基『風にあたる』の句跨がりは(少なくともカリフォルニア檸檬さんが取り上げている歌を読む限り)そうではありませんよね。最初の返答で【〈とるなら木曜/日に休みたい〉ではなくて〈有休を/とるなら/木曜日に/休みたい〉ということです。】と書いたのですが、五×六みたいな短歌一首の捉え方は要するに後者のように語句を把握するということです。上句下句の合わせ鏡的な構造すら相対化するといいますか。それで、思い出したのがシンプルに5・7・5・7・7に音を当て嵌めるだけでも短歌って句跨がり的ながくがく感って出ますよね。なので、一首全体をのっぺりとさせていくのは単純に定型に音を嵌めていく以上の操作が必要です……などなどから個人的には下句の句跨がりだけにこだわるのではなく一首全体を5・7・5・7・7という文節すら相対化して歌は読みたい。そんなイメージで上記の連想は書きました。

【檸檬】
句またがり、というより極端なことを言うのですが
宇都宮敦が発明した(とされている)一首を三分割するのと似たような発想で
たとえば、
木曜日のひびきが好きで/有休をとるなら木曜日に/休みたい
のような定型ではなく、意味上の区切れもあるでしょうか


【水沼】
木曜日の歌はそれこそ発想と定型の容量がたまたま一致した、みたいなそういう軽い感じがおもしろさの核なのかなと思いますが、宇都宮敦の〈真夜中のバドミントンが 月が暗いせいではないね つづかないのは〉の歌はそれとはまったく別の構造だと思います。


【檸檬】
自分の理解不足だと申し訳ないのですが、水沼さんの
句またがり・区切れ・文節
などの考え方・認識の仕方が分からなくなってきています……


【水沼】
わたしは反対にいろいろ質問に答えるなかで自分のこだわりポイントがわかってきたような気がしていましたが。


【檸檬】
わかってきたような気がすること、今後どこかで可視化・明言化
あるいは活用される機会、楽しみにしています。

【水沼】
反対に、逆質問ですが、カリフォルニア檸檬さんはこの一連だとどの歌をおもしろく読みますか?また、意外とわかりそうでわからないままここまできましたが、カリフォルニア檸檬さんは〈つつ〉の使用には肯定的なのでしょうか?それから、椛沢さんに限らなくても大丈夫ですが、カリフォルニア檸檬さんにとっての短歌を3首ぐらい教えてもらえるとうれしいです。


【檸檬】
「りんごの味」からだと、先ほど言及した三首


指で押す指よりひろく黒ずんだアボカドそういうものと知ってる
木曜日のひびきが好きで有休をとるなら木曜日に休みたい
はちみつ入り黒酢飲料はりんご味ふたくちめからりんごと分かる


が特に、おもしろく読みました。

<つつ>の表記そのものは、ともかく
<ながら>ではなくて、あくまでも<つつ>の概念・感覚は重要な気がしています。
主な理由は二つあって、想像の対象を拡大できる
のと、何がどうなるかなんて分からないし
本当の因果関係なんて分からないじゃないですか、があります。

三首くらい、の本意が分かりきれていないですが
直近にnoteで引用する予定のない、なおかつ2019年のポテンシャルにグッときた短歌で
考えていたら、たまたま
この三首になりました。

はじめての自転車姿何枚も撮る 恋がまだ元気なうちに
  /武田穂佳「学生短歌バトル2019」
きみも普通。 わたしも普通。 きみもふ わたもふ だいじょーぶでしょ
        /初谷むい「わたもふ」『ねむらない樹vol.3』
まだ生きている人たちとテーブルをつなげてつくる広いテーブル
      /乾遥香「歌会たかまがはら」


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【檸檬】
水沼さん、今回は急な企画に迅速に対応いただいてありがとうございました。
元旦に更新される、週間短歌(http://mizu0826saku.blogspot.com/?m=1)で再掲と追記してくださるとのこと楽しみにしています!

※水沼さんに指摘していただいて確認したところ『てのひらを燃やす』の「Ⅱ」に<つつ>を含む短歌は一首ありました。

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