心にゆとりが無いと「有難う」には気づけない
上記のツイートの通りだが、人並みに「有難う」という言葉が好きだ。
「有り難い」は「有ることが難しい=珍しい」が転じて今の感謝を表す意味になったと、はるか昔に覚えた古文の単語帳に書いてあったような気がする。
今思うと、本当にその通りだなと思う。
最低限の衣食住が確保されて、教育も受けられる社会の「有り難さ」だったり、生活を支えてくれる家族の「有り難さ」だったり、会社から貰えるお給料や福利厚生、仕事を通しての経験の「有り難さ」だったり、私たちの周りはそういった「有り難いモノ」に満ち満ちているんだなあと(かといって退職を覆す気は更々無いのだけれど!)。
そして、こういった「有り難さ」は心に余裕が無いと気づけない。
抑うつが酷かった頃の私は「私が!!!不幸の日本代表です!!!どうも!!!」みたいな気持ちで毎日過ごしてた。
八つ当たりというか、自分の事で精一杯というか、周りに対しても刺々しい感情ばかり向けていて、こういった「有り難さ」に全然気づいていなかった。むしろ、有り難いと思っていなかった。ウザイとすら思っていたかも。
今思えば、そう思いこむ事で、自分の心のバランスを無理やり保っていたのかもしれない。
「自意識過剰かよ」とか「悲劇のヒロイン気取ってるんじゃないよ」とか思われてしまうかもしれないけれど、それくらい視野が狭くなってしまうビョーキなんです、御理解くださいませ。
別に説教じみた事を言いたいわけじゃ無いし、全てのモノに感謝を!とか言い出すと、いよいよ教祖みたいになってしまうので、これ以上掘り下げることはしないけれど、「今当たり前にあるものが当たり前にある事は、全然当たり前じゃないんだよ」って事は頭の片隅にあるといいかもしれない。
そんな私の記事を読んでくださっている貴方も「有り難い存在」という事なのだ。
いつも有難うございます。
梨女(@xxnashimexx)