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自己受容ができているかどうかの判定方法を考えてみた

自分を受け入れる。自分を大切にする。自分を愛する。
ありのままの自分をまるっと受け入れる、「自己受容」という作業。

心理学や哲学の先人たちは口を揃えて言う。
「ありのままの自分を受け入れることができれば、人生は好転する」と。
つまり、自己受容は人生の成功戦略だと言っているのである。

私は、自己否定感が強く、自分を愛せていないことを自覚している。
悪しき自傷行為の習慣を正すことには成功したが、自己受容はまだまだ雲の上の概念だ。

そもそも、自己受容に対しては、自分を受け入れるとか、自分に肯定評価をするという概念そのものが気持ち悪くて、いつもどこか拒絶気味だった。
それでも、人生に様々な敗北を認めはじめた昨今、"自己受容戦略"を採用してみても良いかなという気になっている。

しかし、自己受容戦略を採用する上で、大きな壁がある。

それは、「自己受容ができた」とはどういう感覚なのかが分からないということである。

たとえば、ワインに味に詳しくない人が高級ワインを飲んでも、その味がなぜ優れているのか、判別することは難しいだろう。ワインの味を理解できるようになるには、何種類ものワインの味を覚え、記憶の中にある味を基準として、新しいワインを評価するプロセスを繰り返していく。ワインの細かな味の違いを理解する第一歩は、基準を持つことなのだ。

自己受容も同様である。

ネットに公開されている「幸せになるために自己受容しよう!」という趣旨の記事の多くは、自己受容すべき理由や、「自分を褒める」「自分の味方でいる」などの再現性に乏しい方法だけが記載されており、その効果を検証する方法は書かれていない。

「自己受容とはどのような感覚か」を定義することなく、精神論だけでなんとなくの自己受容を目指しても、遠回りするのではないか。私は効率至上主義なので、遠回りが嫌いだ。

そこで、この記事では、私の考えた「自己受容ができているかどうかの判定方法」について紹介する。

はじめに:自己受容は自己肯定ではない

最初に、自己受容とはどのような状態であるかを私なりに定義しておく。以下は、心理学の教科書ではなく、私個人の解釈である。

まず、自己受容は自己肯定ではない、という点に注意したい。

私には嫌いなところがたくさんある。人に愛されないところ、いつも暗いところ、多くの人と価値観が合わないところ、しゃべり方が格好よくないところ…とにかくいっぱいある。

このような自分の嫌いな面に対して、「人に愛されないから自分はダメだ」などと考えるのが自己否定である。

それでは、自己受容的な考え方とは何か。それは「人に愛されないのが私なんだ」と受け入れることである。「人に愛されないけど、私サイコー!」と自己肯定する必要はない。良し悪しの評価を下さず、リンゴを見つめて「リンゴがそこにあるなあ」と思うのと同じように、「人に愛されないのが私だなあ」と中立的に受け入れることができる状態が、自己受容だと考える。中立的とは、良いとも悪いとも判断しないということである。

さらに、自己否定の根源は「愛されない」という現象にあるのではない。愛されないと思い込んでいることにある。自己否定は、その人自身の持つネガティブな思考や感情に溺れることでうまれるのだ。

それでは、ネガティブな思考や感情をポジティブに変えれば良いのか?

まったくもって、NOである。それは紛れもなく、ネガティブな自分を否定する行為だ。(望んでもいないのに何かとあなたをポジティブに変えようとしてくる人は、あなたを否定しているに等しい。)

自己受容とは、ネガティブな思考や感情の存在を中立的に受け止めることである。

自己受容は2つのプロセスに分けられる

ネガティブな思考や感情の存在を中立的に受け止めることができれば、それは自己受容に成功したと言える。それでは、「中立的に受け止める」とは何か。

プロセスは2つだ。

一つ目は、中立的な現象として認識すること。二つ目は、その現象を中立的に解釈することである。

ネガティブな思考や感情を中立的な現象として認識する方法としては、ネガティブを「脳のノイズ」として観察することを提案する。

長年「愛されたい」という気持ちは、紛れもなく自分自身の本当の気持ちだと思ってきた。しかし、最近は、"自由意志"の存在にかなり懐疑的である。

「愛されたい」という感覚は、脳が見せている幻想に過ぎないのではないか?

冷蔵庫は正常に動いていても、ジーっという低音が鳴っていないだろうか。それと同じように、脳は正常に動いていても、自分の意思とは関係なくネガティブを生み出す。「愛されたい」に限らず、「寂しい」「孤独だ」「顔が可愛くない」「うまく話せない」「理解者はいない」「暗い人間はダメだ」など、さまざまな"ノイズ"を勝手に作り出す。

これらはすべて、脳に強制的にそう思わされているだけの、架空の思考・感情なのだ。

もちろん、傷つけられれば悲しいし、友人と疎遠になれば寂しい。根拠があって発生する感情は本物だ。しかし、何があったわけでもないのに漠然と抱いてしまうネガティブは、自分の脳の仕様によって勝手に発生するもので、冷蔵庫のノイズと同レベルである。存在しているだけで発生してしまう、そういうノイズだ。止めることはできない。

ネガティブな思考や感情を、ノイズの発生という現象として考えることで、自分からは切り離された現象として観察対象となる。「自分は、ノイズを発生させる脳を持っている」という中立的な現象として扱うことができる。

もちろん、こうした捉え方はすぐにうまくはできない。私は3年ほど「これは脳のノイズだ!!」と毎日のように考える訓練をして、ようやくできるようになってきた程度だ。考え方を変えるのは簡単ではないが、変にポジティブ化するよりは、自己受容に近づける考えだと思う。

脳のノイズは、どう聞こえるか?定点観測する

次に、「脳のノイズ現象」を中立的に解釈することに関して述べる。

自分の脳は、ノイズが発生する脳であることはわかった。愛されたい時、これは偽物の感覚だと判別することはできるようになった。しかし、それに対して「そんなの嫌だ!」と思わないことは、非常に難しいのではないか。

自己受容初心者の私は、ヘンテコなノイズを発生させるような脳に生まれてしまったことが憎くて仕方ない。偽物の感情だとわかっていても、愛されたいと錯覚しているあいだは辛い。「人に愛されないのが私だ、なんて、そんなの嫌だ!」である。

中立的な現象として捉えることに成功したからといって、それに"何も感じないでいること"、すなわち中立的な解釈を行うことは、非常に難しいのだ。

自己受容の最大のボトルネックは、この中立的な解釈にあると考える。中立的な解釈ができるようになれば、自己受容できたといっても過言ではないだろう。

これを踏まえて、最後に「自己受容ができているかどうかの判別方法」を提案する。とても簡単だ。

・「自分の脳はノイズが発生する脳である」ことに対してどう思うか?

・ノイズが発生している時、どう思っているか?

・「◯◯ができないのが、私なのだ」という自分像にどう思うか?

この3つを定点観測するのである。

はじめて飲んだワインの味を覚えていれば、次に飲んだワインの味のちがいを見分けることができる。それと同じように、定期的にこの質問を自分に繰り返すことで、過去の評価を基準として比較可能となり、違いを認識できるようになる。すなわち、"自己受容の進捗度"がわかるのである。

これらの質問を問うた時に何も感じないようになれば、それは自己受容ができたと言えるのではないだろうか。

人は、比較対象なくして何かを認識するのが困難だ。自分の存在さえも、絶対的なものではなく、他者や周りの環境があってはじめて定義される相対的な存在だ。

現在は、自分の脳に「憎しみ100%」かもしれないが、5年後には「あの時ほどは憎くない」といった変化が見られるかもしれない。10年後には、かすり傷程度の痛みしか感じず、かなり自己受容ができていると言える状態になっているかもしれない。

私を含め、自己否定的な人は白黒思考が激しい傾向にあるため、少しうまくいかないともう全てダメだと判断しがちである。自己受容を成功させる上では、進捗度を把握し、少しの進歩を認識できる構造が重要だと考える。


もしかすると、死ぬまで自己否定の呪いから抜け出すことができないかもしれない。でも、もはや人生の目的は偉業の達成でなくていいのだ。他者や社会に誇れることは何もしなくていい。

私が一番欲しいのは、「私が私に抱きしめてもらえること」だから。


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独善的な表現者・メタ認知芸人(♀)。心の暗闇を見つめる作業と、思考の言語化が好き。

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