色彩との出会い②人生のどん底期
前回の記事の続きになります。前回記事はこちら↓
・・・重度の腰椎椎間板ヘルニア発症前後約2~3年の間、私は「青」と「黒」のものしか手に取れなくなったのです。
その期間のわたしは、おそらく人生のどん底期でした。
八方塞がりというか、お先真っ暗というか。。。
お金がなかったわけではなかったのですが、特に病気が判明した時は
明らかにストレスが原因だということは明白でした。
その頃は、家族との間にも自分の努力ではどうにもできない問題を抱えていましたし、当時お付き合いしていた人との関係もうまくいかず、仕事に走り続けている自分がいたことを記憶しています。
足が麻痺したのは、旅先でのことでした。
外資系商社にて一緒に働いていた同僚の台湾人の女の子となばなの里に訪れた時のことです。
前日にホテルに泊まったとき、なんとなく足が突っ張るような感覚に陥りました。自分では「疲れが溜まっているのかな?」程度のものでしたが、観光当日、自分の手で靴ひもが結べませんでした。
手が足まで届かなかったので、自分でもこんなことを同僚にお願いするのはどうかと思いながら、「本当に申し訳ないですが、靴ひもを結んでほしいです。」そうして謎の違和感を抱えたまま、なばなの里に行きました。
出発から観光まで、冷や汗が止まりませんでした。なんとなく動悸がしていましたが、迷惑をかけるわけにはいかないという想いと、この変な感覚は勘違いであってほしいという想いから、ずっと笑っていました。
その後、公園の中にある足湯に浸かって、立ち上がろうとしたとき私は立てませんでした。手伝ってもらってようやく立って、両足を思い鉛のように引きずりながら歩きました。
そして、体の限界を感じた私は同僚に「病院に連れて行ってほしい」と懇願しました。なばなの里を出るまでの30分間が5時間以上に感じました。
病院も休みにも関わらず開けてくださり、あまりの激痛で待合で座ることもできず、泣きながらブロック注射を打ってもらって、ベッドにうつ伏せになりながら、当時の彼にメールをしました。
「病院にいる、本当にきつい」
その時、当時の彼から帰ってきた返事は
「成長していないな。」でした。
心配の言葉は一言もありませんでした。
私は涙も出ませんでした。苦しすぎて心が砕けていく音を聞きました。
婚約してくれと言ってきた当時の彼は、辛い顔をみせる私を手助けすることもなく、病気の時に突き放しました。遠距離だったから状況がわからなかったのか、常識からは考えられない言動でした。本気でこの時の彼とは別れてよかったと心の底から断言します。
病院でレントゲンを撮影して、ドクターに告げられたことは、
「よくこの状態で歩いていたね、今すぐ大阪の病院に紹介状を書くからMRI検査をしてもらってください」
という言葉でした。
働きすぎ、頑張りすぎ、弱音を吐けなかった私は自分の体をここまで追い込んだのだとその時に気づきました。
この状態と「青」と「黒」がどう関係があったのかは次回お楽しみに(続)
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