月の光

私にとって、大切な人が亡くなっているという情報を知ったのは6月9日。

久しく会ってもいなかったし、風の噂で聞く話では体調が思わしく無いとも聞いていたので「死んだ(死んでいる)」と聞いても特に驚かず、「あぁ、やっぱりな」と思ったくらい。

「大丈夫?」と声をかけてくれる人や「なんと言葉をかけていいのか…」と私よりも哀しんでくれる人を前に「私は何か大切な感情を失ったまま生きているのではないか」と自らの人間性を疑うくらい、ケロっとしながら何事も無かったかのように日々を過ごしていました。


亡くなったと聞いてしまった以上、せめて墓参りくらいはしたいなと思ってその人が眠る街を訪れました。

でも問題がひとつ。私にとって、とても大切な人ではあるけれど、一緒に過ごした時間は本当に短いし、しばらく会っていなかったし、家族のことも知らないし、つまるところ、お墓がどこにあるか分からないのです。大切な人なのに何もわからないんだなって改めて思いました。でも家の近くには共同墓地があるし、そこに行けばきっとお墓があると思ってそこを目指して出かけました。

広い墓地を一時間以上かけて墓石を一つ一つ確かめて歩きました。何個か同じ名字の墓石を見つけましたが、違うっぽい。その人の名前やうろ覚えな家族の名前がその墓石にはないのです。

暑いし、墓地に1人で怖いし、虫がいっぱいいるし、草もとげとげしているし、そんな思いをしているのに見つからないし。だんだん探すのが嫌になっりながらも、「なんで死んだんだよ、身勝手過ぎるだろ」と悲しくなってきました。

人が死ぬっていうのは本当に悲しいことだと始めて思いました。

もう会えないとか、もうあの時は戻らないとか、あの時こうすれば良かったとか、そういうことが悲しいのではなく、そんな気持ちをぶつける場所がなく、これからも与えられることがないというのはこんなにも残酷で陰湿なことなんだということを学びました。


最近読んだ本の中に「カオス理論」っていう理論があって、ほんのわずかに初期条件が変わるだけで結果に大きな差が起こる現象、予想がつかないような複雑な現象を起こす微分方程式・力学系を扱う理論のことなんだって。

人生は毎日の些細な選択の積み重ねで続いて行って、選択の結果、初期条件がどんどん変わって行って。その結果私が今、こうして生きている。生きてさえいれば、2人が選ぶいろんな選択の結果、また出会うこともあったかも知れない。

お互い生きてさえいれば、許し合ったかもしれないし、気が済むまでお互いを傷つけ合うことも出来たでしょう。手を取り合う選択肢も、金輪際他人に戻る選択肢も、もう私たちにはない。死ぬなんて身勝手だ。本当に身勝手だ。だって私ひとりで選択肢を拾い上げ続けたって何も起こらないのだから。


月は日によって様々に姿を変える。それは太陽と月の間に地球があって、地球と月の角度によって、月の光っている部分が増えたり減ったりしているからなんだって。落っこちそうなくらいの満月も、綺麗な三日月も、爪の先くらいの細い月も、見方を変えると全部同じまん丸な月。

きっと世の中に隠されている様々な真実も月と同じで一つなんだろうけど、見方によって様々にその形を変える。見え方が変わるから「ああ、満月だな」とか「下弦の月だな」とか見える形にその度に感嘆するんだろう。

あの人は死んでしまったけど、悲しいかな、私はこれからも生き続ける。他人になんてなれやしないから、この空虚感が蔓延る毎日と地続きになっている「これから」を生き続けなければならない。

生きていく上で、私はたびたびあの人のことを思い出してその度にいろいろ考え込むのだろう。まるであの人は月になってぐるぐると私の周りを周り続けているみだいだ。私はその度に「あぁ、今日は空気が澄んで月がよく見える」なんて思ったりするのだろう。

月は太陽みたいにじりじりと熱を持ったりせず、優しい光を放つ。暗い夜道を照らしてくれるけど、眩し過ぎることは無い優しい光。そんな月の光は自らのエネルギーで光を放つわけではなく、太陽という存在を受けて光放つ。月はたまに短い夜の間だけじゃなく、太陽のように明るい世界に行きたいななんて思ったりしたのかな。

思い出や死んだ人は美化されるなんて、昔からよく言われるけど、まさにそんな感じ。でもね、本当に死ぬなんて身勝手だ。本当に身勝手だ。月を見上げることすら嫌いになりそうだ。

そんな日でも月は優しく光るから残酷だ。

うちの金魚に美味しいエサを食べさせたいと思います。