物書きになろうと思っている

小学生の頃、僕は漠然と「将来、獣医師になりたい」と話していた。何か物を助け、それが間接的にでも、人を助ける。『人の命を助けたい』なんて崇高なことは言わない。動物好きだし。ただ好きな動物と触れ合えて、動物の健康を保つことで喜んでくれる人がいる。それの喜びを感じれたら素敵だと考えていた。
小学校の頃、僕は夏休みの宿題である読書感想文にて区のコンクールに入賞したことがある。父親と別居して母と母方の祖父母と暮らしていた僕は、その日帰ってきて一番に祖母に「0点を取った」と冗談を吐いて賞状を見せた思い出がある。母は看護師で日中働いており、帰ってきた母に賞状を見せたときの誇らしげな母の表情は忘れられない。

ついさっき、僕は夜中に起きた。変な時間に起きてしまった。寝るために流したゲーム実況の再生ボタンはおそらく寝落ちたところで止まっていた。おもむろに起き上がって祖父母の仏壇に目をやった。そうだ、小便がしたかったんだ。スマホを握りしめたままトイレに発った。
トイレという個室は寂しすぎる。狭くて、電球一個分の光をもって、換気扇の音は無音と同義だ。何回も、何回も流したゲーム実況の再生ボタンを押して、オチのわかっている話は、耳からぼっとする頭を経由して、寂しさだけ持っていって消えてしまった。
昨日何して寝たんだっけ。そうだ友達と車で飯食いに行ったな。今日は何するんだっけ。病院に行かなくちゃいけないな。
僕は深夜の寂しさすら残らない個室で考えに耽っていた。大学の夏休みは長すぎる。繰り返す日々には失笑も起こらないほど色はなく、ほぼ空っぽの部屋にほぼ空っぽの人間がひとりいると、密度の低い日々の予定を無理に埋めようと変な汗をかく。これまでのことを考えるよりもこれからのことを考えることはとても辛い。これからのことなんて考えたくない。そう思ってもこの密室にはこれからの話をしようと奴はずっと投げかけてくる。
再生ボタンを止めた。
じゃあ明後日は?明々後日は?一週間後は?1ヶ月後は?僕はそれに適当に返事をする。「へぇ、バイトとか割と入れてるんだ。」白い壁を見つめて自問自答をする。「学校も始まるしな。バイトは……入れようとしてるだけだよ。」僕はわかっている。期待はしないほうがいいと。僕はこれまで始めたバイトは半年続かなかった。働くことの楽しさは数字になって現れてもわからなかった。楽しいことは……働くことじゃない。「へぇ、それじゃあ将来は?」
唐突で批判的な質問にぎくりとした。僕はそれにはすぐに答えられなかった。もうすでに『将来の夢』というシンプルな質問は答えづらい頭になってしまっていた。「今は関係ないだろ。」そんな質問には強く反発した。「関係なくないさ、お前はいずれ気づく。それかもう気づいてるんだ。バイトして半年も続かない。それで将来やりたい職なんて手につくはずもないだろう。それが本当に"好きなこと"でも目先の辛さに負けてしまうんだろう。」その言葉は今の僕に痛すぎた。少しバイト先で注意されたりすることには耐えられないメンタリティは体格には似合わず、情けなかった。逃げ続けていた。都合の悪いものには目を背けていた。そんな考えを見透かされていた。「それでも将来のことを考えることは辛すぎる。真っ暗な暗闇をライト無しで歩くようなものだ。そして僕は空っぽだ!まるでこの便所のように空っぽだ!そんな奴の将来なんて空っぽに違いない!」
密室は暑い空気を帯びていた。換気扇はゴオゴオと音を立てて回っている。僕の発狂に、少し黙って、奴は続けた。「お前はわかっているんだ。」「お前の過去はお前の将来と違ってそんなに明るいものだろうか?あるいは、お前の過去はそんなに暗いものだろうか?」「お前には人に見てほしいような最高の思い出を一つや二つ、人に知られたくないような過去を一つや二つ孕んでいるはずだ。そんな良かった、あるいは悪かった過去の思い出一つ一つに明暗があるとするなら、将来は真っ暗と言えるだろうか。」「歩き続けるのにライトなんているのか?」僕は黙ってしまった。奴は続けた。「つまり、過去や未来に明暗なんてないんだ。良かった、悪かったなんてお前が決めつけたものだ。俺のしたい将来の話は辛さが見えないやりたいことさ。お前の本質さ。それはきっと空虚じゃない。」僕は何がやりたかったんだ。何をしていたんだ?周りがやっているから?流行っていたから?僕がそれに向いていると決めつけていた?僕は目に見えるものしか見えてなかった?奴は続けた。「これは虚勢かもしれないが。」はっきりとは結論をつけなかった。考え方を歪まされ、頭が痛くなってきた僕は言った。
「お前は誰なんだ?」奴はすでに去ろうとしていた。「俺はお前の過去さ。」彼は言ってから消えた。
密室は滲むような汗を乾かすことはなく、相変わらず換気扇はゴオゴオと音を立てている。
突然、扉からノックの音が聞こえた。はっと僕は頭を上げた。「入ってんの?」母だ。もう何分このトイレに入っていただろう。僕は、「お腹痛くて。」と嘘をついた。母は、「扇風機当ててるからよ、早く出てよ。」と高い声を出した。そそくさとこの密室を飛び出して、これを書いている。僕は、今は、物書きになろうと思っている。

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