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【つの版】度量衡比較・貨幣144

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 宝暦8年(1758年)、美濃国郡上藩での一揆騒動は幕府中枢にも波及し、多くの幕閣が失脚しました。一連の事件の調査と解決に尽力した将軍近侍の田沼意次は功績により加増され、1万石の大名に昇格します。これより意次は評定所へ出席し、本格的に幕政に参加することとなりました。

◆通◆

◆貨◆


意次出世

 時の将軍・徳川家重は病気により言語不明瞭でしたが、少なくとも暗君ではなく、側近の大岡忠光を通訳として比較的善政を敷きました。しかし宝暦10年(1760年)4月に忠光が逝去すると、家重は嫡男の家治いえはるに将軍職を譲って隠居し、翌年6月に49歳で薨去します。

 家治は父の遺言により田沼意次を重用します。宝暦12年(1762年)に石高を5000石加増、明和4年(1767年)にはさらに5000石加増して2万石とし、御側御用取次から側用人に昇格させ、従四位下に昇叙させます。また江戸城神田橋御門内に屋敷を授け、領内での築城を許可しました。明和6年(1769年)にはさらに5000石加増され、異例にも側用人のまま老中格に昇格しています。600石の旗本から大名・老中格になったのですから破格の出世です。

 ただ、老中首座には明和元年(1764年)から松平武元たけちかが就任しています。彼は水戸徳川家の御連枝・常陸府中藩主の松平頼明の庶子で、享保13年(1728年)に9歳で上野館林藩主の松平武雅の養嗣子となり、陸奥国棚倉藩に転封されました。奏者番、寺社奉行、主計頭を経て延享3年(1746年)に西丸(家治付き)老中となり館林に再封され、翌年には本丸老中に就任しています。田沼意次とは同年の生まれで半年年長であり、意次の協力者として家治のもとで幕政を統括しました。従って、意次がいきなり幕府の実権を全て掌握したわけではありません。

 とはいえ幕閣からの反発も大きく、同明和元年には秋元涼朝すけともが老中を辞職しています。彼は武元・意次より2歳年長で、大身旗本の出として順調に出世し、宝暦10年に本丸老中となり、宝暦13年(1763年)には吉宗の十三回忌法会の奉行をつとめるほどの人物でしたが、意次の急激な出世を不快に思い、彼が殿中で挨拶しなかった時は非礼を咎めたといいます。

伝馬騒動

 郡上一揆の他にも、宝暦年間(1751-1764年)にはいくつかの一揆事件が起きています。宝暦3年(1753年)には宇都宮藩で「籾摺騒動」が、宝暦11年(1761年)には信州上田藩で「上田騒動」が勃発し、首謀者の死罪と引き換えに年貢増徴を取りやめています。明和元年末から翌年正月にかけては、中山道なかせんどう沿いの宿場町で大規模な一揆「中山道伝馬てんま騒動」が起きました。

 伝馬とは、街道沿いの宿場町に人足や替え馬を配備し、使者や大名行列が交通する時に提供させる駅伝制度です。幕府はこれを補助するため、宿場町近郊の郷村に人馬の拠出を命じる「助郷すけごう」を課していました。これにより宿場町は繁栄しましたが、負担を強いられた郷村は労働力を失い、身を持ち崩して没落する者も増えたといいます。

 明和元年、将軍の代替わりを祝賀する朝鮮通信使が来日すると、幕府は使節の通過する東海道と中山道沿いの宿場町に対して村高100石につき国役金(必要経費)3両1分を納入せよと命じました。さらに12月には日光東照宮150回忌に備えて助郷村を増やすと通達したため、これに反発した村役人や農民たちが各地の宿場町に集結し武装蜂起したのです。騒動は武蔵・上野・信濃および下野の一部にわたり、10万人とも30万人とも伝えられる規模に拡大、各地の富農らが暴徒に襲撃・掠奪され、中山道は機能麻痺に陥ります。

 驚いた幕府は助郷の追加を取り下げて沈静化を図りますが、騒動はしばらくおさまらず、多数の村役人を拘束し処分することになりました。公職選挙もない時代ですが、こうした一揆は首謀者の処分と引き換えに、ある程度は幕政に影響を及ぼすことができていたのです。

経費節減

 しかして、一揆が頻発すれば治安が悪化し、幕府の権威に傷がついてよくありません。一揆を減らすには農民の負担を軽減し、増税よりも減税を行わねばなりません。しかし収入が減れば財政が破綻しますから、まずは幕府の無駄な経費を節減するのが現実的です。

 「積極財政を行った」と現代ではもてはやされがちな田沼意次ですが、実際は吉宗にならって経費節減に取り組んでいました。大奥は縮小され、御納戸金(将軍の私生活費)は2万4600両(1750年)から1万5000両(1771年)まで減らされ、役所別に定額予算制度が採用され(1755年)、筆墨・灯油の現物支給も停止、役所経費での購入に変更されています(1764年)。

 また幕府の負担軽減のため、吉宗時代に停止されていた国役普請(手伝普請、諸藩の負担による大規模土木工事)が再開されます。宝暦4-5年(1754-55年)には幕命により薩摩藩が木曽三川の治水工事を行い、多額の出費と借金を強いられました。「薩摩義士」として語られる事件は後世の伝説のようですが、諸藩への負担は間接的に領民にのしかかることになります。

 にも関わらず、幕府財政は赤字基調になっていきます。宝暦11年(1761年)までは米が赤字の時はあっても金は黒字続きでしたが、翌年から米・金ともに赤字が続き、明和元年には米5万石、金5万両の赤字となります。こうなると財政再建の解決策は、例によって貨幣改鋳しかありません。

五匁文銀

 明和2年(1765年)9月、田沼意次は勘定吟味役の川井久敬の提案を受け、「五匁銀」と呼ばれる貨幣を発行しました。これは表面に「文字銀五匁」と刻印された長方形の銀貨で、文字通り5匁(18.65g)の重さがありますが、文字銀(元文銀)なので銀の純度は46%しかありません。銀は天秤で重さを図り、純度を計算して用いる「秤量貨幣」ですが、久敬は重さを5匁に固定して流通させ、幕府公定相場である「銀60匁=金1両」に合わせて、12枚で金1両にあたる「計数貨幣」にしようとしたのです。銅銭や現代のコインが金属の市場価値にはよらず、ただ枚数によって価値が定まるのと同じです。一分金は1/4両ですから五匁銀3枚(銀15匁)に固定されるわけです。

 元文金(文金)は1両が3.5匁(13.06g)、純度65.71%なので純金の量は8.58gです。文字銀は純度46%で、1匁(3.73g)に1.7158g、5匁に8.579g、15匁に25.737g、60匁に102.948gの銀が含まれます。1両=60匁とすると、金銀交換比率は確かに1:12(8.58:102.948)とはなりますね。ただ文金は銀が34.29%ですから、金1両あたり4.478g(1匁2分)の銀が含まれますが。

 江戸など東国では銀よりも金が貨幣として流通しており、金銀の交換相場は日々変動していました。五匁銀は銀と金の交換比率を固定化することで、東国でも銭のように流通しやすいという触れ込みでした。しかし当時の市場における金銀交換比率は金1両=銀63-64匁で、為替差益や手数料収入が見込めなくなる両替商からは反発されます。結局五匁銀はほとんど流通することなく、明和5年(1768年)7月には小判への引換回収が開始されました。なお五匁銀は黒っぽくて長方形なので、俗に「硯箱」とも呼ばれます。

真鍮四文

 川井久敬はこれにくじけず、今度は銅銭の改鋳を建議します。吉宗の時代に発行開始された鉄一文銭は貨幣供給量を増やしたものの、見栄えも悪く不評でした。銅銭も引き続き発行されましたが、海外への輸出で銅が不足していたために限りがあります。そこで銅68%、亜鉛24%、鉛8%の合金である真鍮を用い、重さを1匁4分(5.2g)に増やして「1枚が4文にあたる」とする四文銭を鋳造することにしました。明和5年(1768年)、江戸深川千田新田に銀座監督の銭座が設けられ、この四文銭が発行開始されます。

 通常の一文銭と区別するため、真鍮四文銭の裏面には川井家の家紋である「青海波せいがいは」を入れました。発行当初は21本の線で波が描かれましたが、翌年から11本に簡略化されます。含まれる純銅は3.536gと1匁にもなりませんが、鉄一文銭より大型で金色に輝く四文銭は庶民から好評で、波(浪)銭・青銭とも呼ばれて受け入れられました。

 手数料抜きでおよそ金1両=銀60匁=銭4貫文(4000文)として、純銀1g≒現代日本の1000円相当で換算すると、金1両は10万円、銀1匁は1666円、銭1貫文は2.5万円、銭1文は25円です。すると四文銭は、現代日本でいう100円硬貨に相当し、1000枚(1貫)でおよそ1両にあたるわけです。

 四文銭の普及により、物の値段には4文の倍数が多くなりました。団子屋は1串に団子5つを刺して5文で売っていたのを、1串4つで4文にします。銭湯は6文から8文になり、蕎麦は「二八蕎麦」すなわち2×8=16文になります。四文銭が100円相当なら、それぞれ100円、200円、400円ですね。蕎麦に揚げ玉が入れば24文(四文銭6枚)、天ぷらが入れば32文(四文銭8枚)という具合で、惣菜やおでん、寿司、煮魚、団子などが1品につき4文で買える「四文屋」なるファストフード店も出現するほどでした。この成功に味をしめた川井久敬は、改めて貨幣改革を推進することになります。

◆四◆

◆文◆

【続く】

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