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【つの版】ウマと人類史:近代編17・文化露寇

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 18世紀後半、ロシア艦隊は北方から到来して日本近海に出没し、漂流民の送還を口実に通商と国交を求め始めました。幕府はこれを警戒し、北方国境の防衛と調査に力を入れ始めることになります。

◆黄金◆

◆神居◆

北方調査

 大黒屋光太夫たちが帰国する数年前、寛政元年(1789年)に、東蝦夷地(国後・目梨)ではアイヌによる大規模な対和人反乱「クナシリ・メナシの戦い(寛政蝦夷の乱)」が起きます。これは和人商人のアコギな商売に激怒したアイヌらが武装蜂起したもので、和人71人が犠牲となりました。反乱に同調しないアイヌも大勢いましたが、幕府は「松前氏の監督不行き届きである」として調査を行います。

 寛政8年(1796年)、英国海軍士官ブロートンがカナダのバンクーバー島から太平洋を横断して東アジアに到来し、朝鮮半島・揚子江・蝦夷地・千島列島など各地の沿岸で測量調査を行いました。その道中では蝦夷地南部の内浦湾(噴火湾)に面した虻田や室蘭に立ち寄っています。越冬のためマカオへ向かったのち、別の船を購入して翌年5月に沖縄へ向かいますが、1隻は宮古島沖で座礁・沈没します。ブロートンは那覇を経て日本列島の太平洋岸を北上し、江戸湾の存在を確認した後、仙台・函館を経て日本海側へ抜け、日本を去って行きました。驚いた幕府は寛政10年(1799年)に東蝦夷地を松前藩から取り上げて7年間幕府直轄地とし、北方の調査と防衛に着手します。

 幕府は田沼意次の頃から最上徳内らを派遣して蝦夷地を調査させていましたが、今回はさらに近藤重蔵らが派遣されます。徳内と重蔵は択捉島に渡って「大日本恵登呂府」の標柱を立て、領有を宣言しています。また商人の高田屋嘉兵衛らが派遣されて国後・択捉航路を開拓し、函館や本土との交易で財をなしました。翌年には伊能忠敬が派遣され、正確な測量が行われます。有名な彼の全国測量は、まず奥州街道と東蝦夷地(函館から根室手前の西別まで)より始まったのです。伊能忠敬の弟子が間宮林蔵です。

文化露寇

 ロシアでは1799年、皇帝の勅許により「ロシア領アメリカ会社(露米会社)」が成立し、それまでアラスカの毛皮交易を担っていた民間の会社が半国営化されました。会社には皇帝や皇族・貴族らも出資しており、会社の利益の三分の一が皇帝のものになるとされ、アラスカ、アリューシャン列島、クリル諸島(千島列島)などでの毛皮採取・鉱物採掘を独占的に認められました。ロシアは太平洋沿いに南下して1804年にはシトカ(ノヴォ・アルハンゲリスク)を占領し、遥か南の現カリフォルニア州サンフランシスコ付近にまで進出して要塞を建設していきます。

 この頃、まだアメリカ合衆国は1803年にナポレオンからルイジアナを購入したばかりで、太平洋側には到達していませんでした。英国はすでにバンクーバー島を発見していますが入植地は少なく、南にはスペイン領カリフォルニアがあったものの辺境過ぎて手が届かず、メキシコ独立戦争が勃発するとそれどころではなくなりました。

 しかし、露米会社は人員を維持するための食料生産にすら事欠く北方の辺境にあり、経営は当初から火の車でした。そこで露米会社の設立者のひとりレザノフは、日本やスペイン領カリフォルニアと交渉して食料を調達しようと考え、皇帝アレクサンドル1世にかけあいます。

 大黒屋光太夫が帰国してまもなく、1794年には仙台藩の所有する千石船「若宮丸」の水夫・津太夫らがアリューシャン列島に漂着し、ロシア帝国の庇護下に置かれていました。彼らは光太夫と別れてイルクーツクに居残った新蔵らの世話になり、日本語教師等として活動していましたが、皇帝は1803年に彼らのうちの希望者を日本へ送還することとし、見返りに日本と国交を結ぶことを企図しました。津太夫らはサンクトペテルブルクに招かれて皇帝に謁見し、レザノフらとともに太平洋経由で日本へ向かうことになります。

 1803年6月、レザノフや津太夫らはクルーゼンシュテルン率いるロシア艦隊に乗ってサンクトペテルブルクの外港クロンシュタットから出航し、バルト海・デンマーク・英国を経て大西洋を南下します。艦隊はカナリア諸島、ブラジル、南米大陸南端のホーン岬を経て太平洋に出、ポリネシアの島々に立ち寄りながら北西へ向かい、1804年(文化元年)7月2日にカムチャツカ半島南東の港ペトロパブロフスクに到達しました。8月5日にここを出発すると千島列島沿いに南下したのち、八丈島や薩摩の沖合を経由して、9月4日に長崎の出島に到達します。津太夫らは図らずして日本人初の「地球一周」を体験したことになりました。

 幕府は報告を受けたものの議論が長引き、津太夫らは半年の間出島に留め置かれた末、ようやく入国を許可されます。ただしレザノフらに対しては「通商も国交も許可しない」と通告し、門前払いしました。レザノフらはやむなくカムチャツカへ戻り、カリフォルニアへ向かってスペイン人と交渉しますがうまくいかず、「日本を開国させるには武力を用いるほかない」との報告を皇帝に送っています。

 文化3年9月(1806年10月)、レザノフの部下フヴォストフ率いる数十人のロシア兵が樺太南部の久春古丹クシュンコタンを襲撃し、松前藩の居留地を掠奪・放火しました。翌年4月にはロシア船2隻が択捉島を襲撃し、幕府会所へ艦砲射撃を行いました。幕府は東北諸藩の駐留兵とともに応戦しますが敵わずに撤退し、ロシア兵は会所を掠奪・放火して引き上げます。この際中川五郎治ら日本人数名が捕虜となりました。この一連の事件を、文化年間にロシア人が侵略してきたことから「文化露寇」といいます。当時は魯西亜と表記しましたから、文化魯寇とするべきでしょうか。

 この蛮行に幕府は驚き、前年に発布していた薪水給与令(異国船に薪や水などを給与することを許可する)を撤回して、異国船打払令を復活させました。さらに翌年には西蝦夷地や樺太も松前藩から召し上げて幕府直轄地とし調査や防衛を強化しています。ただこれはレザノフもロシア皇帝も預かり知らなかったことともいい、レザノフは1807年に病死しています。1808年、フヴォストフらは皇帝に召還され処罰されました。

間宮海峡

 文化5年(1808年)、松田伝十郎と間宮林蔵が幕命を受けて樺太へ渡り、調査と測量を行いました。樺太アイヌは遅くとも江戸初期には松前氏と交易関係にあり、番屋が置かれていましたが、大陸と繋がっているのか独立した島なのかは、日本側は把握していませんでした。また北樺太(サハリン)にはニヴフやウィルタなど非アイヌ系民族がおり、対岸のアムール流域のウリチ人と山丹交易を行って、清朝の官服(蝦夷錦)など大陸の品々をアイヌや日本にもたらしていました。出島や対馬・琉球のみならず、樺太・蝦夷地を介しても江戸時代の日本は海外と交流があったのです。

 間宮たちは樺太沿岸を北上しつつこうした事情を把握し、ついに樺太と大陸の間の海峡を発見して「間宮瀬戸」と名付けました。すなわち間宮海峡です。アムール川から運ばれた土砂によって海峡は最狭部では7.3km、最も浅い部分は水深7.2mしかなく、冬には凍結して渡ることが可能です。間宮らはここに「大日本国国境」の標柱を立て、文化6年(1809年)に宗谷へ戻りますが、同年に再び北上して海峡を渡り、アムール川下流域の清朝領を密かに探索しています。

 ただ、この地の付近の住民にとっては、樺太が島であるのは古来自明のことでした。13世紀末にはクビライの命令でモンゴル軍が海峡を渡って樺太に渡り、南端まで攻め込んで砦を築いていますし、モンゴルを駆逐した明朝の永楽帝もアムール川河口部まで調査隊を送っています。17世紀中頃にはロシア人がシベリアを経てアムール川河口部に来ていますし、1709年には清朝がイエズス会士を含む調査隊を派遣して測量させています。

 1787年、フランス人ラ・ペルーズが太平洋を横断し、マニラから台湾沖、済州島沖を経て日本海に入り、朝鮮半島沿岸を北上して樺太へ向かいます。彼は清朝の東北部、すなわち「チャイニーズ・タルタリー(チャイナ領のタルタリア/韃靼)」と樺太の間にある海峡を「タタール海峡」と名付けましたが、水深が浅すぎて通過できませんでした。彼は「海水が徐々に塩分を失っているから地続きではないか」と考えましたが、ひとまず樺太西岸を南下して蝦夷地との間の海峡(宗谷海峡)を抜けて太平洋側に出、千島列島を経てカムチャツカに達しています。彼はのちに遭難死しますが、その手記は欧州に届けられて出版され、彼に因んで蝦夷地と樺太の間の海峡は「ラ・ペルーズ海峡」と呼ばれることになりました。現在も国際的には宗谷海峡はそう呼ばれていますし、間宮海峡ではなくタタール海峡の名が広まっています。

英夷蛮行

 間宮らが樺太探検中の文化5年8月(1808年10月)には、長崎出島に英国船が入港する「フェートン号事件」が起きています。この頃オランダ本国はフランスの傀儡国で、東南アジアの植民地ともども英国に制海権を抑えられて日本まで船を送れなかったため、出島のオランダ商館長はアメリカの商船に「オランダの旗を掲げてオランダ船として入港して欲しい」と頼んでいました。英国はこれを知り、オランダの旗を掲げたアメリカ船と偽り、まんまと出島に入ってきたのです。艦長のペリューは船に入ってきたオランダ人らを捕縛し、英国の旗を掲げると、他のオランダ人も引き渡すよう求める暴挙に出ます。また薪や水や食料の提供も求め、応じない場合は港内の船を艦砲射撃で焼き払うと脅しました。なんたる横暴な行動でしょうか。

 オランダ商館長ドゥーフは長崎奉行所に避難し、オランダ人生還のため要求を飲んで戦闘を回避するよう勧めました。長崎奉行らは英国船を抑留しようとしますが守備兵が乏しく、周辺諸藩に出兵を求めつつ少しずつ水や食料を渡して時間稼ぎをします。しかしこれを悟った英国人らは人質を返還し、急いで長崎を立ち去りました。結果的に被害はなかったものの、異国船の横暴な要求に応じてしまった長崎奉行らは切腹し、英国はロシアとともに危険で野蛮な「夷狄」であると日本に認識されることとなります。

◆黄金◆

◆神居◆

【続く】

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