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【つの版】ウマと人類史:中世編03・東西突厥

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 突厥は柔然とエフタルを滅ぼし、ユーラシアの東西を統合する大帝国となりました。彼らはいわゆる「テュルク」ですが、支配下の住民が全てテュルク「民族」に変わったわけでも、顔立ちや血筋や言語が入れ替わったわけでもありません。騎馬遊牧民の人口は定住民より常に少なく、上がすげかわり共通語が増えただけで、下々はそのまま暮らしています。

◆トゥルトゥル◆

◆ダダダ◆


被髪左衽

 ひとまず、周書に書かれた突厥の習俗を読んでいきましょう。原文を引用するのはめんどくさいのでやめます。

 その習俗は、髪を結わず、服を左前にし、フェルトで作ったゲルに住み、水と牧草のある場所へ移動し、牧畜と狩猟を務めとする。年寄りを賤しんで壮健なのを尊び、恥知らずで礼儀知らずなことは、古の匈奴と同じである。

「被髪左衽」とは、儒教の経典『論語』憲問にある熟語です。かつて孔子は斉の名宰相・管仲を評して「彼がいなければ、わしは被髪左衽(蛮夷の姿)をしていたであろう」と言ったそうです。管仲の時の斉は北方の燕に侵入した山戎を撃退していますから、もし管仲がいなければ中原は蛮夷のものになっていたかも知れない、という褒め言葉です。あいにく孔子から千年後には中原は五胡争乱の巷となり、被髪左衽の者が溢れかえってしまいました。

 チャイナの伝統的衣服(漢服)は、前の襟が左肩側から右の脇の下へ向かい、右の衽(おくみ)を覆い隠します。倭国は古墳時代には百済・高句麗の影響か左衽でしたが(埴輪も左衽です)、文明国の仲間入りをするため右衽に変えました(その前は貫頭衣で衽もありませんが)。それで和服(呉服)も右衽です。左衽・左前は蛮夷の服装(胡服)で、漢人や和人は「あの世では全てが逆になる」という思想から死装束に用いたのです。

 チャイナの影響で周辺諸国には右衽が浸透し、チャイナドレスの原型の旗袍のもとのデールも右衽ですが、この頃はまだ左衽のようです。辮髪の人もいたので「被髪」というわけでもなさそうですが。次に行きましょう。

君主官位

 その君主が即位する時、近侍の重臣たちは彼を毛氈に載せて担ぎ、太陽の方向へ九度回転させ、一回ごとに臣下はみな拝礼する。それから助け起こして馬に乗せ、布でその首を絞めつけ、気絶寸前で解放する。そして「あなたは何年可汗でおられるか」と問うと、朦朧とした彼は詳しい年数を言うことが出来ない。臣下らはそのうわ言を聞いて在位期間のおおよそを占う。

 君主相手に随分な扱いですが、テングリの子として神秘的なカリスマも求められますから、こうした託宣めいた神事を行うのでしょう。

 官で大きなものに葉護(ヤブグ)があり、次に設(シャド)、次に特勤(テギン)、次に俟利發(イルテベル)、次に吐屯(トドゥン)がある。その他の小官は28階級があり、みな世襲である。

 ヤブグはクシャーナ朝やエフタルの、シャドはサカ族の領主が持つ称号のひとつです。テギンは匈奴で単于に次ぐ階級の屠蓍王(賢王)と関係があるかも知れません。イルテベル/エルテベルはイラン系の称号リトベール(法をもたらす者)からともいいます。トドゥンは烏桓の単于だった蹋頓と関係があるような気もします。他にイルキン、タルカン、ベグ、チュルなど様々な称号があります。突厥に加わった諸部族は多種多様なルーツを持ち、各々の言語や文化、称号を持ち寄ったのでしょう。人口が少ない騎馬遊牧民は、服属した者は皆殺しにせず、即戦力として取り込みます。こうした称号はアヴァールやブルガール、ハザールにも共通しています。

 武具には弓矢・鏑矢・甲冑・刀剣があり、佩刀の飾りは刺突用を兼ねる。旗印(トゥグ)の上には金の狼の頭をつける。侍衛の士は附離(ブリ)といい、これはを意味する。彼らの祖先は狼であるから、それを忘れぬようにしているのだろう。兵馬を徴発したり家畜に課税したりする時は木を刻んで数を数え、金鏃の矢を蝋で封印して信契とする。その刑法では反乱・殺人・姦通・馬泥棒は死刑とする。姦通の女は多くの財物を没収し、相手の妻とする。争って人を傷つければ相応の賠償品を納めさせる。馬などを盗んだら十数倍にして返させる。

 トゥグについては先に触れました。かつてローマと戦ったダキア人は、狼の頭を持つドラゴン(ドラコ)の旗印を用いたといい、何か関係があるかも知れません。また矢を契約の証とするのは古来広く行われ、矢誓・矢言の語があります。誓は矢を折って言う契約のことで、その時の心を哲(さとる)といい、それによって得られる託宣を知(しる、さとる)といいます。遊牧民も矢(オク)を差し出して誓いとし、十の部族(オグル)が集まった連合を「十の矢(オン・オク)」とも呼びました。

 死者があれば、屍を天幕の中にとどめ、子孫や親族は各々羊や馬を殺し、天幕の前に並べて死者を祀る。その天幕の周囲を馬で七回駆け廻り、入口に詣でて刀で顔面を傷つけ、血と涙を共に流して慟哭し、七回目でやめる。日を選んで死者の乗馬や普段使っていた品物を取り、屍と共に焚き上げる。それから灰を取り、時を待って埋葬する。春夏の死者なら草木の葉が黄色くなって落ちる頃、秋冬の死者なら花や葉が栄え茂る頃を待ち、始めて穴を掘って埋める。その日には親族は祭を設け、馬を走らせ顔を傷つけるのは最初の葬儀と同じである。埋葬が終わると、墓所に石を建てて標とする。その石の多少は生前に彼が殺した人の数による。また羊や馬の頭をもって祭り、標の上にこれらを懸ける。この日、男女はみな着飾って葬儀場に会合する。

 喪儀の様子はやはりスキタイや匈奴、烏桓や高車に似ています。儒教では喪儀に関して特にやかましいのですが、蛮夷は儒教など知ったことではないため、仏教などの世界宗教や古来のシャーマニズムに従います。

 男は愛する女があると、人を遣わして婚姻を申し込む。父母はおおむねNOとは言わない。父兄や伯父・叔父が死ねば、子や弟や甥は彼らの妻を自分たちの妻とする。ただし尊属の者は卑属の者の寡婦と婚姻できない(父が子の寡婦を娶ったり、兄が弟の寡婦を娶ったりはNG)。

 移動して常に定住することはないが、各々の土地の区分けは存在する。可汗は常に於都斤山(ウテュケン山)におり、テントは東に開いていて、おそらく日の出るところを敬うためである(烏桓と同じ)。毎年貴人たちを率いて祖先のいた洞窟(ボグダ山の洞窟)を祭る。また(旧暦)五月中旬には人々を水辺に集めて天神を拝み祭る。於都斤山は周囲400-500里、高山が巡り出て、上には草木がない。これを勃登凝黎(ボグ・テングリ)といい、チャイナの言葉では地神である。

 ウテュケン山は、オルホン川が流れ出るハンガイ山脈にあります。ハンガイ/カンガイはモンゴル語で「湿潤な地」を意味し、ゴビ(沙漠)の対義語です。漢訳して「燕然(安然、やすらかな地)」といい、その名の通り河川や湖沼、草木が多く、涼しくて過ごしやすい土地で、古来多くの騎馬遊牧民から聖地とされました。モンゴルでは今もエトゥゲン・エヘを大地母神として崇拝しています。

 文字は胡のものに似る(ソグド文字)。暦を知らず、ただ草の青くなるのを記(年)とする。

 6世紀後半、ハンガイ山脈北方のアルハンガイ県ブグトに建立された突厥の碑文は、三面にソグド文字・ソグド語で、一面だけにブラーフミー文字・サンスクリット語で刻まれ、漢語やテュルク語が用いられていません。突厥文字はソグド文字をもとにして7世紀後半に作られたものと推測されています。その内容は、ムカン・カガン(木汗可汗)からマガ・ウムナ・カガン(菴羅可汗)に至る10年ほどの記録で、「ウサギの年」という語が出てきます。これはチャイナの十二支でいう卯年で、西暦571年辛卯に相当します。上層部では暦を知らなかったわけではないようですね。

 ちょうどここで周書の突厥の習俗に関する記録は終わります。歴史の続きを見ていきましょう。

他鉢可汗

 西暦571年辛卯、あるいはその次の年に、木汗可汗が逝去しました。彼には息子の大邏便がいましたが、国人は木汗可汗の弟を立てて他鉢(タトパル)可汗としました。乙息記可汗と木汗可汗はともに伊利可汗の子ですから、他鉢可汗もまた伊利可汗の子で、年長者を立てたのでしょう。乙息記可汗の子には摂図(ソグド語spʾyt、白)と処羅侯がおり、王族として尊重されています。他鉢可汗は摂図を爾伏(ニワル)可汗として東面(テリス)を統括させ、自分の弟の褥但の子を歩離(ブリ、狼)可汗として西方に住まわせました。西方には叔父の室点密がいますから、突厥東部の西方でしょう。

 この頃、北周の武帝は突厥の王女を皇后としており、毎年多数の絹織物を突厥へ貢納して服属していました。突厥の使者が北周の都を訪れれば、下にも置かぬ扱いでもてなされたといいます。東の北斉もまた突厥の襲撃を恐れており、国庫を傾けてせっせと突厥へ絹や財宝を贈り、攻撃しないように求めました。可汗は傲慢になり、「わしの南におる二人の息子(北周と北斉)が孝行者で従順なら、物資がなくなる心配はない」と豪語したといいます。

 しかし577年に北斉が北周によって滅ぼされると、残党は突厥へ逃げ込みます。突厥は北斉の皇族である高紹義を擁立して皇帝とし、北周領となった幽州(北京周辺)へ侵略して、北斉を復興しようとしました。武帝は自ら北伐しようと兵を集めますが578年に病気で崩御し、皇太子の宇文贇が即位します(宣帝)。突厥は北周に和解を申し出、北周は高紹義を送還すれば公主を嫁がせようと提案します。突厥は難色を示しましたが、結局は高紹義を送還し、580年に宣帝の従妹が突厥の爾伏可汗に嫁ぎました。

 これに先立つ579年、宣帝は突然7歳の皇太子衍(静帝)に譲位して天元皇帝と名乗り、五人の皇后を立てました。彼は政治を皇后の父である重臣の楊堅(隋の文帝)に委ねて酒色に耽る一方、武帝の代の仏教弾圧を緩和しています。580年に宣帝が崩御すると、581年には静帝が楊堅に禅譲し、が建国されました。宣帝がアホとして描かれているのは、隋の文帝の即位を正当化するためのお定まりのやつです。他鉢可汗も宣帝の影響か仏教を導入し、各地に寺院や仏塔を建立して経典を求めましたが、581年に逝去しました。

沙鉢略可汗

『隋書』突厥伝によると、他鉢可汗の子の菴羅(ウムナ)が後を継ぐことになりましたが、木汗可汗の子の大邏便が反対します。結局は爾伏可汗が菴羅に賛成票を投じたため、菴羅が可汗として即位します。彼は即位を正当化・正統化するため、木汗可汗以来の歴史を記した「法の石」を立てましたが、これがブグト碑文なのです。

 しかし大邏便の反対運動は収まらず、やむなく菴羅は爾伏可汗に譲位し、東の独洛水(トーラ川)のほとりに遷って第二可汗となりました。爾伏可汗は伊利倶盧設莫何始波羅可汗(イリキュル・シャド・バガ・イシュバラ・カガン「国を保つ君主、聖自在カガン」)と号し、略して沙鉢略可汗と呼ばれました。イシュバラとは梵語イーシュヴァラ(自在)で、大神シヴァの異名であり、自在に振る舞う専制君主を指す例がサカやクシャーナ朝のコインにあります。エフタルなどの影響でしょう。彼は乙息記可汗の子、伊利可汗の嫡孫にあたり、名を摂図といいました。また大邏便を阿波可汗とし、突厥には三人の可汗が並立することになります。

 ちょうどその頃、チャイナでは北周が隋に代わっていました。これに対して各地で反乱が起こり、北斉の営州刺史であった高保寧が黄龍(遼西)で決起しました。彼は北周にも従わず独立を保っていましたが、北斉の残党や周辺の異民族を集めて隋に対し挙兵したのです。突厥は彼と結託して隋を攻撃し、長城付近を劫略しました。華北と巴蜀を併せ持つ隋はもはや天下統一目前で、突厥に対抗できるようになっています。弱体化させねば危険ですし、可汗の妻は北周の皇族ですから、隋は妻の実家から帝位を奪った賊です。

 582年冬、隋の文帝楊堅は大軍を率いて突厥へ遠征しました。4年前に北周の武帝が果たせなかった大事業です。沙鉢略可汗は諸部族を率いて迎撃しますが撃ち破られ、飢饉と疫病にも苛まれてあえなく撤退しました。これで可汗の権威が低下したため、沙鉢略可汗は野党の阿波可汗を先んじて攻撃し、彼の母親を殺害します。阿波可汗は還るところがなくなり、西の達頭可汗(タルドゥシュ・カガン)のもとへ亡命しました。彼は伊利可汗の弟・室点密(イステミ)の子です。達頭可汗は阿波可汗に兵をつけて沙鉢略可汗を攻撃させ、有力者たちが離反して西側へ走ったため、突厥はついに伊利可汗の即位から30年目にして東西に分裂することとなりました。

 突厥の動揺により東方では従属部族の契丹(キタイ)、西方では阿抜(アヴァール)が蜂起し、沙鉢略可汗は隋に救援を求めます。かつて匈奴が東西に分裂した時、呼韓邪単于が漢に救援を求めたのと同じです。隋はこれを好機として東突厥を支援し、援軍を出して反乱を鎮圧しました。おそらく東西分裂も各地での反乱も、隋の楊堅が煽っていたのでしょう。

 587年に沙鉢略可汗は隋へ子を遣わして朝貢しますが、同年に天幕が火事になって火傷を負い、数ヶ月後に逝去しました。彼の遺言により弟の処羅侯が跡を継いで葉護可汗(ヤブグ・カガン、バガ・カガンとも)となり、沙鉢略可汗の子の雍虞閭は葉護となります。彼の時に隋は援軍を派遣し、阿波可汗は捕らえられています。しかし葉護可汗は、まもなくペルシアとの戦争で流れ矢に当たって戦死し、国人は雍虞閭を立てて頡伽施多那都藍可汗(トラン・カガン)としました。トランとはトゥーラーンのことでしょうか。

 阿波可汗は捕らえられたものの、西突厥には達頭可汗が健在で、国人は木汗可汗の孫にあたる人物を擁立して泥利(ニリ)可汗としました。少し時間を遡り、達頭可汗のこれまでを振り返ってみましょう。

達頭可汗

 室点密は575年末頃に逝去し、子の玷厥が即位して達頭可汗(タルドゥシュ[西方の]・カガン)となりました。ちょうど東ローマの使節ウァレンティヌスが到着した頃で、その葬儀に立ち会っています。彼らは室点密が派遣した使者のアナンカステスを送って来たもので、東ローマとの同盟を更新し、ペルシアと戦うことを申し出ています。しかし達頭可汗(トゥルクサントス、テュルクのカガン)はこう告げたといいます。

「ここにわしの十本の指があるが、ローマ人はこれと同じ多くの舌を持っておるな。他人が苦労して得たものを騙して掠め取りおって。速やかに帰国して君主に復命し『テュルクを欺こうとするなら、罰を受けずにはおれぬぞ』と告げるがよい。貴様らはわしに友好を請い求めながら、わしから逃げ去ったウァルコニ(アヴァール人)とも気脈を通じておるではないか。もしわしがこの哀れな奴隷どもをめがけて出撃すれば、やつらは鞭の音を聞いただけで震え上がり、蟻の巣のように踏みにじられよう。わしはローマへの道を知らぬわけでもないし、水路も知っておるぞ。山々が防壁となると強がるな。東の端から西の端まで、大地全体は我が財産である!」

 この頃、ユスティヌス2世はアヴァールとペルシアに挟まれたストレスのせいか錯乱状態に陥り、ティベリウス2世に譲位していました。ティベリウスはアヴァールやペルシアにカネを送って和平を買い取り、フランクと同盟してイタリアのランゴバルド族を攻撃させましたが、フランクが失敗したのでアヴァールに頼んでいます。達頭可汗は耳ざとくこれを聞きつけ、東ローマの使者を叱責したわけです。そればかりか西方の諸部族に命じてクリミア半島を攻撃させ、アヴァールと東ローマを脅かしました。

 ティベリウス2世は諸国との紛争に対処しますが582年に崩御し、将軍マウリキウスが帝位につきます。アヴァールのバヤン・カガンは貢納金8万ノミスマ(金貨)に加えて2万ノミスマを要求し、皇帝はこれを飲みました。しかしアヴァールは過度な要求を繰り返して侵攻の口実を作り、スラヴ人の大群とともにバルカン半島へ押し寄せます。584年にはシルミウム(ベオグラード)を陥落させてギリシア本土のペロポネソス半島まで到達しました。スラヴ人たちはそこに200年以上住み着き、先住民を追い出したといいます。

 ペルシアでは大帝ホスロー1世が579年に崩御し、跡を継いだホルミズド4世が東ローマとの戦争を継続していました。長期に渡る戦争でペルシアも疲弊しており、東方ではエフタルの残党が突厥と手を組んで侵攻して来ます。ついにはアム川を渡ってバルフとヘラートを奪ったため、東方元帥バハラーム・チョービーン率いる精鋭に撃破され、東突厥の葉護可汗・処羅侯はこの戦いで戦死したのです(587-589頃)。こうなると突厥もペルシアとの戦争に力を入れざるを得ません。国内外ともにナメられたらおしまいです。

 ちょうどこの頃、隋は南朝最後の王朝・陳を攻め滅ぼし、西晋滅亡以来270余年ぶり、黄巾の乱からは400年以上ぶりにチャイナの天下を統一しました(589年)。東西に分裂した突厥に対し、チャイナはついに再統一され、その巨大なエネルギーを北方へ向けることになります。

◆WINnin'◆

◆5◆

【続く】

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