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ブッダの言葉を現代的にとらえる。『仏教思想のゼロポイント』魚川祐司


12月下旬。キリスト教のイベントが終われば、日本はすぐに年越しの準備。除夜の鐘を聞いて、年末を実感します。そして、お寺や神社に初詣に行って、おみくじで新しい一年を占います。このキリスト教も仏教も神道も、よくわからないものも、あれこれ混じってる感じが私は好きです。

日本の仏教にしても、中国大陸や朝鮮半島から伝わった漢字の経典ベースなので、そこには中華な文化がしっかり混じっていて、さらには偽書もあって。日本は日本で、いろんな時期の仏教があって、宗派が別れていて。しかも、明治以降は肉食妻帯OKの純日本式(?)がメインになりました。だから海外の仏教徒からすると、日本が異端と言われるのも、まあ、わかります。

世界的には、日本のお坊さんが本来の意味で「出家」せず、結婚して家庭を持ち、肉食も飲食もするので規格外なのですが、日本に住んでいると日本が普通なのは当たり前。戒律にこだわらないわりに、宗派の違いにこだわる日本の仏教に批判的な人は、タイとかミャンマーとか、ブータンなんかに目を向けたりもしているとのこと。

ブッダは自分の考えを書き残さなかったので、弟子たちが彼の言葉を書き残したものしか、私たちは知ることができないのですが、そのあたりを踏まえつつ、現代的に理解しようというのがこの本。いわゆる「はじまりのはじまり」のブッダの教えは、専門用語で「原始仏教」と言われています。

著者の魚川さんは、ミャンマーで修行した経験を生かして、日常的論理的な言葉で仏教を説明してくれています。確かに、仏教の本を読んで挫折するのは、専門用語の多さとか、概念のややこしさ難しさです。かといって、「やさしい」言葉で説明されても、やっぱりしっくりきません。だから、こういう一般向け、かつ論理的な説明はとてもありがたいです。

例えばブッダは、自分の説法の対象が、語れば理解できる一部の人間(衆生)で、すべての人だと思っていなかったそうです。少なくとも彼自身はそう考えていたとのこと。これは、現代日本で知る仏教イメージとはかなり違う考え方です。

ブッダの教えの根幹は「労働と生殖の放棄」。でも、生殖は生き物が普遍的に求めるものだし、労働は人間が社会を形成し、人間関係の中で自己実現するのに不可欠のもの。だから、ブッダの教えは「人間として正しく生きる道」ではないのだそうです。人間が放っておけば自然に向かっていく流れの方向に、真正面から「逆流」することを説くのがブッダの主張。

この2つの指摘、言われてみれば理解できますが、言われないとわかりません。なぜなら、私たちは普通にお寺にいけば、仏様はありがたいもので、お経の話はいいもので、お坊さんに期待するのはありがたい話や慰めというイメージを植え付けられているから。でも、もともとブッダが説いたのは、「正しい」ものではなく、世間に「逆流」するものだったんですね。

魚川さんによれば、ブッダのいう「苦」は、単に苦痛だけを意味しているのではないそうです。むしろ欲望の対象にせよ、その享受にせよ、因縁で形づくられたものが全て無常のものである限り、欲望の充足を求める営みは、常に不満足に終わるしかないという事態を意味するという説明は、なるほどと思います。ちょっと哲学っぽいですね。

宗教と哲学の境界線は多分あいまいだろうし、宗教と道徳の境界線もあいまいだろうと思います。きっちり区別はできないけれど、もともとの「仏教とはなにか」をざっくりと知っておくのは悪いことではない気がします。

この本のタイトルが、「正しい仏教」とか「仏教の真実」みたいな手垢の付いた言葉ではなく、「ゼロポイント」というのは好感度大ですね。そして、もともとのブッダの主張と、現代日本でイメージする仏教がなぜこんなに違うのか。いろんな本を読んで、調べてみたくなります。


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