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大阪造幣局と香港鑄幣廠と三人のトーマス

大阪造幣局の桜の通り抜けが、4月11日から17日まで行われます。あそこの桜は品種が様々なので、ソメイヨシノより盛りが遅いものもたくさんありますから、この時期でも大丈夫なんです。ソメイヨシノなら、大体その前の週には葉桜になっています。

さて、この大阪造幣局は、実は香港と大変に深いゆかりがあります。

造幣局の最初の設備一式が、香港造幣局(香港鑄幣廠)のものだったことを知っている人は少なくないでしょう。また、明治3(1870)年3月に造幣寮首長に任命されたトーマス・ウィリアム・キンドルが香港鑄幣廠長だったことも知られています。

ちょっと順を追ってみていきましょう。すると、大阪造幣局と香港造幣局のただならぬ関係が見えてきます。

慶応4(1868)年、貨幣制度を一新することを決定した日本政府は造幣工場(造幣寮)の建設を決め、英国商人トーマス・ブレーク・グラバーを通じて、香港鑄幣廠の設備一式を6万両で購入します。この香港鑄幣廠は1866年に設立され1868年6月に閉鎖されました。その際に土地と資材一式は、ジャーディン・マセソン商会に売却されています。グラバーがこの設備一式を購入できたのは、彼のグラバー商会が、ジャーディン・マセソン商会の長崎代理店だったからです。グラバーは1859年に上海で「ジャーディン・マセソン商会」に入社、2年後に長崎に、ジャーディン・マセソン商会の代理店としてグラバー商会を設立しています。
このグラバー商会の忠告により、明治元(1868)年9月、ジョン・プリチエットとクリストファー・ボイドという元香港鑄幣廠の技術者が雇い入れられます。そして、建築等の担当として、グラバー商会から計画に参加した技師がトーマス・ジェームズ・ウォートルスです。ウォートルスの雇用には、やはり旧薩摩藩士の五代友厚らの推薦もあったようです。その後、ウォートルスは、1969年に正式に「チーフエンジニア」に任命されます。
ウォートルスは1964年からグラバー商会の仕事で鹿児島などで工場の設計等を行っていましたが、実は日本に来る前の1864年の10月ごろ、伯父のアルバート・ロビンソンに招かれて香港を訪れ、翌年の3月または4月初めごろまで滞在しています。
アルバート・ロビンソンと弟のヘンリーは鉄製建材や製糖機などの輸出を行っており、日本も訪れており、グラバーにも仕事の斡旋を依頼する手紙を送っています。ウォートルスがグラバー商会で働くことになるのはその関係です。またアルバートは当時香港鑄幣廠建設を進めていた香港総督のハーキュリーズ・ジョージ・ロバート・ロビンソンとも友人で、極東進出を図ったのは、総督の影響とも言われています。アルバートと総督は同姓でともにアイルランド人ですが、直接的な血縁関係はないようです。
アルバートとヘンリーはその仕事の内容と総督との関係から、香港鑄幣廠建設に関係していたのではないかとも考えられています。
とすれば、どうもウォートルスは、建築中の香港鑄幣廠を目にしていた可能性が高いと思われます。
また、1868年に香港に出向いて香港鑄幣廠の設備一式を調査した旧薩摩藩士・上野景範は、鹿児島時代のウォートルスの通訳を務めた人物でもあります。

さて、では大阪造幣寮の設計自体はどうだったのでしょうか。

大阪造幣寮首長のキンドルは、1870年5月16日付 け 書簡で、自分の助言も上手く入れ、香港鑄幣廠の原図を少しばかりの変更で建物を細部にわたるまで設計したウォートルスが賞賛に値する旨を書き記しており、1971年4月の開所式でも、「ウォートルス氏はただ香港造幣局の設計だけをたよりに、あなたたちが目にしている優雅な建築物を建てたのです」と祝辞を述べています。ちょっと妙な祝辞のような気もしますが、実はウォートルスは建築の専門教育は受けていません。言ってみれば何でも屋技師だったのです。
そして、実は香港鑄幣廠の設計を行った王立造幣局のアーサー・キンドルは、トーマス・ウィリアム・キンドルの弟に当たります。
また、トーマス・ウィリアム・キンドルにも助言を受けた上野景範の報告書に、完成した造幣寮の基本的な設計方針が既に記されています。このことから、トーマス・ウィリアム・キンドルが大阪造幣寮の基本プランを引いたのではないかと考えられます。
以上のようなことから、大阪造幣寮は、香港鑄幣廠を基にして設計されたと考えられます。

どちらも現物は残っていません(大阪造幣寮はその正面部分が現在も残されており、旧桜宮公会堂として結婚式場として利用されている)が、写真や図面は残されているので、比較は可能です。

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これは、『旅の家つと』第23浪華の巻所収の造幣局の写真です。中央やや左の大きな建物が造幣寮金銀貨幣鋳造場つまり工場です。
そして次の図が、香港政府檔案處歷史檔案館紀錄香港に掲載されている香港鑄幣廠の正面図です。

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それらをみると、大阪造幣寮は平屋建てで、一方香港鑄幣廠は2階建てですし、外見の意匠にはあまり共通点がありません。しかし、香港鑄幣廠のこの正面部分は庁舎で、その背後にある工場部分は平屋であったようで、その平面図を比較すると、よく似ています。

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こちらは『造幣局のあゆみ 改訂版』所収の大阪造幣寮の工場部分の平面図です。そして、次の図が、先程と同じ香港政府檔案處歷史檔案館紀錄香港に掲載されている香港鑄幣廠の平面図です。

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図上で左右に貫いている廊下より下が正面の庁舎部分で、上が工場部分です。中央上部にやや独立して設けられているのはボイラー室です。どちらも工場部分の正面側は大廊下になっており、そこから櫛状に部屋が設けられています。出入ロは一ヶ所で、各部屋にトイレが設けられています。また、工場本体部分は格子状に柱が配置されているのですが、その柱の中心間の距離は、大阪造幣寮が桁行25尺、梁間12尺であるのに対して、香港鑄幣廠は桁行25フィート、梁間12フィートとなっており、単位を変えただけです。
以上のようなことから、少なくとも大阪造幣寮の工場本体部分は、ほぼ香港鑄幣廠のコピーと言うことができます。

また初めに書いたように、設備も人材も香港鑄幣廠から持ってきたものでした。

大阪と香港の奇妙な縁のお話でした。

追記

大阪造幣寮で使われた鉄骨について、資料を追加しておきます。大阪造幣寮の設立当時の様子を記した資料としては、『皇国造幣寮濫觴之記』と『皇国造幣寮創業記』というものがあります。ともに造幣寮の久世治作の口述を元に、記録寮中属の島村泰が編集したものです。

「皇国造幣寮濫觴之記」は謄写本が現存していますが、『明治大正大阪市史第七卷』所収の翻刻本がありますので、そちらを引くことにします。「鐵柱事件」と眉注のかたちで題が付けられています。

己巳十二月初旬香港よりの報知に曰く、去る戊辰十二月、ウヲトルス氏より英國に注文したる鉄柱四十八本香港の南二十里許某島の海中に於て破船の爲めに沈没せりと。因て示談の上香港に在る舊造幣寮の鐵柱を購ぜん事を謀る。乃ち十二月下旬ウヲトルス氏香港に渡す。其事果して、翌年正月同氏歸國せり。而して三月上旬香港より購入したる鐵柱大坂に到着して、之を建築に用ひたり。初め香港に於て鐵柱の沈没するや、先づ同所より電信を以て英國に報ぜり。英國是に於て此電信を得、直に工師に命じて他の製造を廃し、日本 政府の鐵柱を再造せしむる事最急也。是英國政府に於て日本政府の開化を妨げん事を憂てなり。故に翌年三 月新柱成て、復び積み込み、大坂に達せり。日本に於ては曾て之を知らざりしかば、既に香港の奮柱を以て 建築したり。故に英國焦慮の新柱は全く無用の長物に属し、今に於て神戸に現在せり。抑も此造幣寮の建築に於る、一は火災に罹り、一は水害に遇ふ。共困難辛苦内外擧て目撃せし所なり。

もう一つの「皇国造幣寮創業記」は、早稲田大学大隈文書所蔵の稿本が現存しています。こちらには題は付いていません。

十二月初旬に至り香港の報知を得たり。曰く、向きにウヲトルス氏より英国に嘱せし銕柱四十八條を載航する船、香港の南某島の海中に沈没せりと。衆皆大に驚て、香港よりは電信を以て其事を英國に報知す。英国之を聞て我政府の開化を支障せんことを憂ひ、他の工事を廃し、大に工師を募り更に銕柱を製造せしむること甚急なり。而て我国未だ之を知らざるに因て急に香港に在る所の旧造幣寮の銕柱を贖はんと欲し、其月下旬ウヲトルス氏をして彼地に赴かしむ。既にして同氏購ふ所の鉄柱来着するを以て之を建築の用に供せり。偶英国にて製造する所の新柱も亦既に功を竣て大阪に輸送し来れども終に用ふる所なくして止む。是亦惜む可きなり。嗚呼、此造幣寮の建築に於けるや、或は火災に罹り、或は水害に遇ふ。共困阨顛踣内外擧て目撃せし所にして、其功始めて緒に就くことを得たるは實に明治三年三月なり。

これらによると、大阪造幣寮の鉄骨(鉄柱)は、英国に発注していたものの、船が沈没して失われたためため、ウォートルスが香港まで出向いて、解体された香港鑄幣廠の鉄骨を購入し、それを用いて建設したことが分かります。
大阪造幣寮は、人材、機材、基本設計、そして建築部材の一部を香港鑄幣廠から引き継いでいたわけで、香港鑄幣廠が場所を変えて蘇ったものと言ってもいいのかもしれません。

【参考文献】
・丸山雅子(2016)「ウォートルス伝④明治政府初、本格的洋式工場の建設」ファインスチール60(2),pp11-12
・Meg Vivers(2014).Thomas James Waters (1842–1898) and the Mint at Osaka. Collection Moneta – 176: When Orient and Occident Meet,pp327-335
・造幣局のあゆみ編集員会(2012)『造幣局のあゆみ 改訂版』
・山田幸一、木村寿夫(1982)「造幣寮金銀貨幣鋳造場の当初計画」日本建築学会論文報告集317,pp133-140
・水田丞(2017)『幕末明治初期の洋式産業施設とグラバー商会 : 19世紀の国際社会における技術移転とイギリス商人をめぐる建築史的考察』九州大学出版会
・菊池重郎(1975)「造幣寮御入用勘定帳からみたウオートルスの地位 : 英人 T.J. ウオートルスの事績に関する研究・その 2」日本建築学会論文報告集228,p133-138
・大阪市(1933)『明治大正大阪市史第7巻』日本評論社
・造幣寮(1873)「皇国造幣寮創業記」

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