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梅雨の泡沫

強くはないが、昨夜から雨である。
こういう日は読書に限る。

積読の中から無作為に取り出す。
何も考えずに取るものだから、積読タワーはあっけなく姿を消し、
床の肥やしになっていく。

もう買ったことも忘却の彼方に行くほどの過去に、
どこかの古書店で買った本だった。
買うだけで満足するのが本好きなのか、ただのぐうたらなのか。

それにしても雨音を聴きながらの読書はいい。

耳からの音と、ぺえじをめくる音のシンクロに酔いだした頃、
旧友がやってきた。

『おう、オマエが暇だと思ったから来てやったぞ、なんか出せ』
自分が暇で誰にも相手にされないと、決まってオレのところに来るのが
この男なのだが、腐れ縁も末期となれば怒る気も失せる。

『オマエ、大量の本に囲まれて幸せかもわからんが、
今は電子書籍だろ。床が抜ける前に捨てちまえよ。』

床にびぃ玉を転がせば本棚に向かって転がるのは事実だ。

「床が抜ける前に、オレはこの世からおさらばするからいいんだよ」

『ケッ、相変わらず古臭ぇなぁ』
そういいながら、ヤツはオレの横に座った。

私は本の世界に戻り、ぺえじをめくる。
私は夢中になると、目と脳以外の神経を遮断してしまう。
どのくらい時間が経ったのだろうか。

トイレに行こうと思い、本から目を離したときに
ヤツが来ていたのを思い出した。
ちょうどヤツは大欠伸をしていた。

「呑気なヤツだな」
トイレから出て、冷蔵庫の麦茶をコップに入れて
部屋に戻る。

『お〜やっと飲み物が出たか』
そういいながらヤツはぐいっと飲み干した。

窓から入る風が風鈴を揺らす。

読みかけの本を手に取り、本の世界に入る前に
社交辞令的に聞いてみた。
「ところで、なにしに来た?」

『ああ…』

ヤツは虚空に目を向けたまま、すこし沈思黙考していた。

『妹が亡くなってな。』

私は五感を取り戻し、ヤツの横顔を見つめた。

『この世界の唯一の身内がよ、逝きやがったんだよ』

私は朧気な記憶を辿り、妹の存在を思い出す。
私が覚えているのは中学生くらいの頃の姿か。
妹さんはヤツと同居なので、年賀状のやり取り程度の繋がりは
あるのだが、もう随分と姿を見ることはなかった。
偶然出会ったとしてもわからなかったことだろう。

「そうか、それは辛かったな」
これが考えうる精一杯の言葉だった。

そしてふと思い出した。

ヤツは一昨年亡くなったじゃないか、と。

本を傍らに置き、ヤツの居た場所に目を向けると
ヤツは居なかった。

いや、確かにヤツはここにいたんだ。
不思議なことに、飲み干したはずの麦茶は残っていた。

チリンと風鈴が鳴った。

梅雨が明けたその日、ハガキが投函されていた。
ヤツの妹の喪中はがきだった。
身内は居ないと言っていたが、差出人の名字が違うので
親戚なのかもしれない。

妹さんは、ヤツの心残りだったんだろう。
そして予想よりも早く逝ってしまった事が
悔しかったのかもしれん。

最期に感情をぶつけに来てくれたんだな。

オレはまだしばらくこの世で足掻くから、
その間に妹孝行してやれよな。

喪中はがきを積読タワーの上に置き、
本棚の重さで床が傾くボロアパートを出る。

さ、図書館に行くか…。


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