見出し画像

「ながら時間」を使わない、のも大事だと思う。

どーもしゃびです。

移動をしながらSNSをやったり、家事をしながら音声配信を聴いたり。散歩をしながら音楽を聴いたり。

昔に比べて「ながら時間」を過ごしやすくなった。

ぼくの高校時代は、まだスマホなんてなくて、結構退屈な通学時間を過ごしてた。中吊り広告のコピーを、興味もないのに眺めながら時間を潰してた。

今となっては移動時間は格好の娯楽時間で、
今日も昔のテレビドラマを観返しながら楽しい電車ライフを満喫した。

効率よく時間を使えるようになった一方で、暇への耐性がめちゃくちゃ弱くなった。

子供の一輪車の練習に付き合っていても、今日の音声配信何喋ろうかな、とかつい考えてしまうし、退屈な全体会議の時はずっとスマホを見ている(ごめんなさい)


「ながら時間」は効率的であると同時に、ぼくらからゆとりを奪っているのではないかと感じる。だから、最近はあえて「ながらしない時間」を取るようにしてる。


先日、気になっていたケーキ屋さんにケーキを買いに行った。店内に入るとアンティーク棚が置いてあり、そのなんとも言えない年輪に目を引かれた。少しポロっとした感じが可愛らしいおばあちゃんのようで、しばらく「いつごろのものなんだろう」などと考えながら眺めていた。

すてきな棚だったなぁ、とまだケーキを食べてもいないのに満足して帰宅した。

家の近くに、老夫婦の営むおにぎり屋さんがある。店頭には小さな黒板がぶら下げてあり、その日のちょっとしたトピックスについて、毎朝書かれている。毎朝、通り過ぎざまにそれを読んで、通勤している。
この老夫婦は何年この黒板投稿を続けているのだろうと気になっていた。
そしたら先日、その黒板を書いているのは老夫婦ではなく、その息子(年齢的にたぶん)であることが分かった。店の奥の方で書いている息子の姿を発見したのだ。
同じ黒板投稿でも、老夫婦が書いているのと息子が書いているのとでは印象が違うなぁと思った。


ぼくは視野が狭いので、音声配信のながら聴きとかをしていたら、アンティーク棚やおにぎり屋さんの息子の存在に気が付かなかったと思う。


「ながら時間」は「ながらなし時間」で得られるものを失うことと引き換えに手に入れてるものだと思う。

少なくともイヤホンをつっこみながら歩いていたら、街の音を聴くことはできない。


子供と公園に行くと、よくスマホで動画を撮る。撮った動画を後で観直すと、思いの外いろんな音が鳴っていたことに驚かされる。
混ざり合った子供達の声や、風は気を揺らす音、鳥の鳴き声。


「ながら時間」とは、目的+目的で過ごす時間のことだ。でも目的ばかりでは、意図せぬ出会いは少ない。目的+偶然の時間も大切にしたい。

意識的に「ながらじゃない時間」を取ろうと思う。そこにはお役立ち情報ではない豊かさがある気がするから。


おしゃべり版もあります。
良かったら聴いてみてください。


これを読んでいるってことは、投稿を最後まで読んでくれたってことだね。嬉しい!大好き!