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Are The Kids Alright?

僕は人生を自ら選択して生きてきたのだろうか?
与えられた縁に身を委ねて、ただなんとなく今があるような気もする。

「人生はつかみ取っていくものだ」

なんて言えればかっこいいけど、僕が選び取ってきたものなんてほんの少しだけなのかもしれない。

彼は今頃どこで何をしているんだろう。
またどこかで彼と再会し、縁の接点が生まれることがあるのだろうか?

小学校編

O君と僕は小学校からの同級生だ。一緒のサッカーチームに在籍していたこともあり、よくお互いの家で遊んでいた。O君は周りの同級生と比べても体が大きく、そして少々手荒だった。サッカーの試合では、手荒がすぎて相手を数人負傷退場させることもあったけど、持ち前の身体能力の高さから不動のレギュラーだった。

あの頃、学校では「飛ぶ」のが大流行。
「飛ぶ」とは、当時大人気だったテレビ番組「とんねるずのみなさんのおかげです。」のキャラクター「のりゆき」の必殺技だ。若い方はご存じないと思うので、ぜひyoutubeなどで動画を見てみてほしい。はっきりいってものすごくくだらないが、あの時の僕らにとっては最高の娯楽だった。
必殺技といっても胸を突き出して相手に飛び込むだけの簡単な技なのだが、O君は「飛ぶ」達人だった。O君に飛ばれるとみんな吹っ飛ばされた。休み時間になると、廊下は達人O君に挑むチャレンジャーで人だかりができていた。女子も休み時間になると決まって「ゴム段」を始めるので、廊下はいつも大混雑だった。

僕らは不良に憧れていた。
O君と僕と、クラスメイトのS君の三人で当時人気があった不良マンガ『ろくでなしBLUES』のアテレコをしたり、『ビー・バップ・ハイスクール』の実写版のビデオを観ては中村トオルになりきっていた。O君の両親は早くに離婚していたため父親がおらず、母親もいつも働きに出ていた。だから家にはいつも誰もいなかった。O君ちはぼくらのたまり場になっていた。
一緒に外で遊んだ日、O君は決まって一人で家に帰るのを怖がった。そして家の前まで僕に見送りをさせた。当時の僕は、彼がどんな心境で誰もいない家に帰っていたのかを思いやるだけの想像力を持っておらず、見た目のわりに怖がりなんだな、くらいにしか思っていなかった。

あるクリスマスイブ、わが家で一緒に遊んでいたO君と僕は、「サンタクロースが本当にいるか」について口論になった。O君はサンタクロースなんていない、と言い張った。毎年サンタクロースにプレゼントをもらっていた僕は、なんで彼がそんなことを言うのかわからなかった。

「O君がもらえないのはいい子じゃなかったからじゃないの?」
「それだったらお前だって貰えるわけないだろ。」
「ぼくはお前ほど乱暴ものじゃないからな。」
そんな事を言い合っていると、2階で「コトッ」っという音がした(ような気がした)。

「サンタクロースが来たかもしれない!」
と言って僕は2階に走る。
「そんなはずないよ!サンタクロースなんて嘘だよ!」と言いながらO君も後ろからいてくる。

寝室へ行くとそこには、綺麗なプレゼント用のラッピングをされた箱。ちょうど人生ゲームなどのボードゲームが入っていそうなサイズ感のプレゼントが床に置かれていた。明らかにサンタクロースの仕業だった。

「ほら!言ったでしょ!」
と僕は得意げに言う。
O君はバツが悪そうにニヤニヤと笑っているだけで、何も言わなかった。

中学校編

O君と僕は地元の同じ中学校に進学した。1学年7クラスもある大きな中学校だったことや、クラスが距離的に遠かったこともあり、お互いに別々の友達とつるむようになった。その頃から、2人の仲も疎遠になっていった。
O君はあの時僕らが憧れた仲村トオルを地でいくような不良になっていった。学校でO君だけが金髪で、O君だけが学校指定のパンツを履いておらず、仲村トオル仕様のボンタンを履いていた(ボンタンをご存じない方はググってください)。
僕らの学年はこの中学校の歴史の中でも平和な世代だといわれていたので、彼の振舞い&いで立ちは浮きまくっていた。授業中他のクラスに乗り込んでいき先生の胸倉を掴んだり、追いかけまわしたりする生徒は彼しかいなかった。


高校生編


O君とは疎遠のまま中学校を卒業し、僕は都内の私立高校に進学した。僕とO君は進路に関して把握し合うような間柄ではすでになく、高校に進学してからは彼のことを思い出すこともほとんどなくなっていた。ただ、僕の父親は彼のゆく末をとても心配していて、家族内の話題にはたまに上っていた。

二年生になると、たまたま同じ中学出身の後輩が高校に入ってきた。帰りの電車も一緒だったため、中学の時の思い出話をしながら帰った。

彼が唐突に言った。
「そういえばOさんって知ってますか?」
「知っているよ。小学校の時仲が良かったから。」
僕はこれは懐かしい名前が出てきたな、と思いながらそう答えた。

「Oさん・・・パクられました。」
「・・・え?なんで?」
「殺人です。」

僕は言葉を失った。
事件の経緯は単純なものだった。最寄り駅の駐輪場でO君は会社帰りのサラリーマンにカツアゲをした。そして、相手が大人しくお金を出さなかったので、持っていたナイフで刺し殺した。後日友人宅でシンナーを吸っていたところを、警察に突入され逮捕されたということだ。

突然入ってきた情報に解釈が追い付いてこない。
とりあえず、家に帰って両親にその話をした。両親ともにとても落ち込んでいた。僕も両親も彼に心底同情していた。申し訳ないけど、僕らにとっては刺殺されたサラリーマンや残された大切な人たちのことなんてどうでもよかった。
僕はO君が本当は自分なんかよりも、優しくてかわいいやつであることを知っていた。サッカーの試合で僕がヘマをしてみんなに責められていても、彼だけは絶対に味方のままでいてくれた。小学校のリレーの時、最後の最後で抜かれてしまい、悔しさのあまりバトンを地面に叩きつけるO君。そしてすぐに恥ずかしくなり、所在なげに頭をぽりぽりする。その様子が我が家のビデオに収められていて、家族で何度も見返しては温かく笑った。


今になって思うこと

この話を後輩に聞いてからもう20年以上経つ。だから、そう頻繁に思い出すこともない。

彼は今どこで何をしているのか。はっきりしたことを知っている人間が周りにはいない。中学の同級生が誰も知らないくらい、彼は誰とも交流を続けていなかった。風の噂によれば、どこかの組のやくざになり盛大な結婚式を開いたということだ。ほんとかどうか分からないけれど。

彼のことをたまに思い出す、そのたびに思う。

なんで彼は人を殺し、僕は殺さないのだろうか。
僕がまっとうな人間で、彼が悪い奴だからだろうか。
生まれた環境、育った環境、人間関係その他もろもろの縁が真逆だったとしても、人を刺したのは彼で僕は刺さないのだろうか。

この話を聞いた高校二年の時、僕は毎日のようにイライラしていた。満員電車に揺られては「ここにいるやつら全員死んでしまえばよいのに」と思っていた。でも人を殺して失うのが惜しいと思うくらいには、僕は平和な家庭生活・学校生活を送っていた。

秋葉原で車が人ごみに突っ込んだり、障がい者施設で大量殺人が起こったり、映画製作会社が放火にあったり。目も覆いたくなる事件が時折起こる。これらの事件の犯人のことを庇うつもりはないし、善悪を評価できる立場にもない。
でもそういう事件が起こるたびに思う。
僕はどちら側の人間なんだろう。O君と僕がイーブンでないように、彼らと僕もそうだったのではないだろうか。

いや、そもそもイーブンってなんだろう。
こちら側やあちら側なんてあるのだろうか。
人の人生にバイアスをかけて比べている時点で、たいそう偽善的なのではないか。

僕はいついかなる場合においても今と同じ精神状態でいられる自信が全くない。偶発的な何かがあれば、十分に狂う準備がある。
だからどうか僕の周りが平和であってほしいと思うし、車も突っ込んでこないでほしい。

こんな僕も奥さんと子供に恵まれた。
子供は毎日元気に学校に通っている。
世の中の不平等に異議を唱え、具体的な解決策を提示できるような頭は僕にはない。でも、僕と一緒にいてくれる家族の居場所がどうかこの家であってほしいと思う。そして、子供が外で何かに疲れたりさみしい思いをすることがあっても、安心して帰ってこられる存在でありたい。

O君は今も元気に飛んでいるだろうか。


これを読んでいるってことは、投稿を最後まで読んでくれたってことだね。嬉しい!大好き!