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『映画 えんとつ町のプペル』 コロナと勇気の産声と。

大晦日に『映画 えんとつ町のプペル』を観に行った。その時に感じたことを書きたい。


※ストーリーのネタバレなしで書きます。


4000メートルの崖にかこまれ、そとの世界を知らない町がありました。
町はえんとつだらけ。
そこかしこから煙があがり、あたまのうえはモックモク。
朝から晩までモックモク。
えんとつの町に住むひとは、くろい煙にとじこめられて、
あおい空を知りません。
かがやく星を知りません。

原作絵本『えんとつ町のプペル』はこのように始まる。



煙に覆われて、空が見えない町。
想像しただけでも鬱屈とした気分になる。

晴れた日の公園で芝生に寝転び、空を見上げると気持ちがいい。この気持ちの良さをえんとつ町の住人は知らない。

しかし、「煙の外」という発想そのものがないので、それが残念だとも思わない。



さて、2020年はとんでもない年だった。


「町を歩くリスク」「友達とご飯を食べるリスク」なんて、考えたこともなかった。鬱屈とした気分になった。煙に覆われた町を想像した時のように。

コロナは僕たちの気持ちを、煙で覆った。
そのような意味で、えんとつ町の世界はまさに「今」を描いていた。



一方で、コロナは「煙を晴らす存在」なのではないかとも感じる。

ぼくたちは多くの当たり前や常識の中で生きている。

電車は寸分違わぬスケジュールで運行し、決まった時間に会社に向かうと、車内で同じ人と顔を合わせたりする。この毎日がずっと続いて当たり前だと思っていた。

ところで今日、妻の実家に挨拶に行った。

例年親戚が一堂に会して、お寿司を食べながら団欒をする。こう言っては申し訳ないが、毎年少しめんどくさい。
話に共通点を見出すのが難しく、深い話をする場所でもないため、毎年同じような会話になるのが退屈だったからだ。テレビでなんとなく流れている「人が走っている映像」をチラチラ見ながら、なんとなくの時間を過ごす。
子供が楽しそうなのでまぁいいかと思っていた。


今年はコロナの影響で「みんなで集まるのはやめよう」ということになった。
食事もなし、親戚宅をあいさつだけして回る流れになった。これまでのようなまったりとした時間はなくなり、どこが儀式的に「顔を合わせた」という事実だけを共有した。

寂しい気持ちになった。
落ち着いたらまたみんなでご飯を食べたい。と思った。


この1年で多くの当たり前の見直しを迫られた。

煙が多くの固定観念を生み、またぼくらを守ってもきたことを教えた。

コロナはぼくたちに煙のない世界を想像させた。


「見上げることができない町で、ぼくはどうだ?」(『映画 えんとつ町のプペル』主題歌より)


煙の向こうに何かがあることを、僕たちは知ってしまった。そして、煙が守ってくれないことも知ってしまった。

ぼくはどうだ?と迫られる。

僕は大晦日に「えんとつ町という縮図」を観た。

もう聞こえているんだろう?勇気の産声を
(『映画 えんとつ町のプペル』主題歌より)


勇気の産声が聞こえるだろうか?
ぼくはどうだ?

今、観れて本当によかった。
僕にとって『映画 えんとつ町のプペル』は、まさに勇気の産声だった。


これを読んでいるってことは、投稿を最後まで読んでくれたってことだね。嬉しい!大好き!