分かってもらうこと、受け入れられること
いきなりだけど、人はだいたい生きづらい。
社会と自分との接地点に、何かしら収まりの悪さを感じているから。
分ってほしい。
なぜこんなに伝えているのに分かってもらえないんだろう。
そんなことを思う。
でも本当に分かってもらいたいのだろうか。
分かってるかなんて、それこそ分からないのに。
ちなみに、
「分かりみ深いわ〜」
って言ってるぼくは、だいたい何も分かっていない。なんとなく、相手の言わんとしている雰囲気を受け取っただけ。しかもぼくは人の表情を汲み取るのが超絶苦手なので、文字通り言葉の雰囲気のみを受け取ったにすぎない。
ぼく自身、誰かに「分かりみ深し」をいただいてもほとんど信用していない。「分かりみ深してほしい」とすら思っていない。
ぼくは、分かってくれないと嘆いておきながら、分かってもらいたいと思っていないのだ。
ここに生きづらさの勘違いがあった。
分かってほしいのではなく、
受け入れられたいのだった。
とはいえ、
ああ受け入れられてるなぁ、
と感じるのは難しい。
なぜなら受け入れられるには、受け入れてほしい「ぼく」を社会に差し出さなきゃいけないから。
ぼくは傷つきたくなくて傷つきたくなくてしょうがない。だから「ライフハック人格」をしっかり形成している。社会に相対しているのは「ライフハック人格ぼく」だ。
ライフハック人格ぼくが受け入れられても、「ぼく」が受け入れられたことにはならない。
ここに困難さがある。
社会に受け入れてもらうには、
少しづつライフハック人格を脱いで、ぼくを出しにしていく必要がある。しかし、もう長らくライフハック人生を営んでいたので、「ぼく」が何だか分からなくなっていた。
最近、周りに「内省の達人」たる友達と多く巡り会ったため、「自分を探る」という作業の存在を知った。感化されて自分もやるようになった。
自分を知れば知るほど、差し出しが怖くなる。
と思いきやそんなことはなく、
ぼくが知ったのだから、あなたにも知ってほしい、と思うようになってきた。
そんな変化を感じたら今度は、人に対しても寛容になってきた。思い返せば高校生の頃は、電車の乗客全員に気円斬をお見舞いしたい、と思うくらいギザギザハートだったのに。
ギザギザハートは、ライフハック人格がぼくを守ろうとして現れたものだと思う。ライフハック人格よ、苦労をかけたな。
というわけで、
ここのところ少しづつ生きやすくなってきているように思う。感覚的には童心に戻っている気持ち。
道半ばなので人生訓めいたものはいえないが、なんかいい調子ではあります。
おしまい。
ぼくは音声コンテンツが大好きで、
「しゃびの迷い人ラジオ」という一人しゃべりをしています。よかったら覗いてみてください。
https://www.himalaya.com/jp/show/2290242?Share_from=App&Influencer_uid=4123440&Share_to=CopyLink
ではでは。
これを読んでいるってことは、投稿を最後まで読んでくれたってことだね。嬉しい!大好き!