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「貯める」という病

こないだ整理収納アドバイザーにお願いして、家の整理収納を見直した。ぼくも妻も片付けが苦手だからだ。

話を聞いているだけですごく楽しい。

収納の理屈は明白で、

・「面倒くさい」の総量をできる限り減らす。
・物の目的と必要数量を明確にする。

こんな簡単なことがなんでできないんだろう。

よくある事例を聞いてみると、やはり「捨てられない人」が多いらしい。
「使わないけど大事な物」「もしかしたら使うかもしれない物」が多いそうだ。

そういいえば、おじいちゃんおばあちゃん家に行くと、いつ使うかも分からない空き箱や紙袋がたくさんあったな。


ぼくは、物欲があまりないので物を溜め込むことはないけど、やはり捨てるとなると躊躇する。
去年1度も着なかった服でも、捨てるのは惜しいとつい残したくなる。


これって、現代社会の病なのかもしれない。



僕らはお金を稼いで、それを物やサービスと交換して生活する。お金は貯めておくことができるので、必要になった時に備えて貯蓄をしておく。

お金があれば僕らは自由だ。


疲れたらタクシーを捕まえれば家まで送ってくれるし、ご飯を作るのが面倒だったら、松屋に行けば1分でホカホカの牛丼が食べられる。
休日自分へのご褒美でちょっと高いアクセサリーを買ったっていい。

なんて素敵な社会なんだ。

資本主義の本質は「貯めておけること」
お金はいつでも使えるので、尽きない限りは僕らは好きなように生きていける。


しかし、裏を返せば貯める社会って、尽きたらアウト社会でもある。ぼくらはサービスや商品と交換するためのリソースを失ったら、自由の終焉であることを知っている。

だから、ぼくらは物を捨てられない。
交換して手に入れた大事なリソースを失うこととイコールだからだ。

貯める社会において物を捨てる行為は、身を削るに等しい。

この社会ってとっても便利だけど、心に窮屈な世界でもある。

ぼくのnoteや音声配信を読んだり聴いたりして、感想をもらうことがある。
ぼくは何も差し出してないけれど「読んでくれて嬉しいという気持ち」を受けとる。
もしかしたら、ぼくが差し出した気がないだけで、拙いアウトプットを受け取って何かを思ってくれてるのかもしれない。

何かを減らさなくても、受け取ることができる。

でもぼくらはどうしても、
「渡しても減らない物」を持っているのに「渡して減る物を大事」にしがちだ。



娘が産まれた時、その時彼女は僕のことを認識してすらいなかったけれど、一生かかっても返しきれないものをもらってしまった。

交換の理屈であれば、ぼくは彼女にずっと返し続けなきゃいけないけれど、なぜかぼくはさらに受け取り続けている。

ぼくは無くなりはしないのに、無くなると思ってビクビクしているだけなのかもしれない。

大切なものだけで生きていたいよね。


おしゃべり版もあるよ。
良かったら聞いてみてね。





これを読んでいるってことは、投稿を最後まで読んでくれたってことだね。嬉しい!大好き!