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「多様性」という言葉に感じる違和感

多様性、ダイバーシティという言葉がよく聞かれるようになった。

すごく大事なことだと思う反面、
日本で唱えられてる「多様性」というワードに、違和感を感じてもいる。

違和感の源泉はなんだろう。

「多様性を」で検索をすると

多様性を受け入れる
多様性を持つ
多様性を高める
多様性を認める

などが出てくる。

多様性とは受け入れたり、認めたりするものらしい。



ところで、世の中にはたくさんのマイノリティが存在する。

日本においてはバングラデシュ人はマイノリティだ。難聴はマイノリティだけど近眼は技術革新の影響でマイノリティではなくなった。

もっと細かく分ければ、
怒りんぼも泣き虫もマイノリティ。
『鬼滅の刃』を観に行った人はマジョリティだけど10回観に行った人はマイノリティかもしれない。ぼくのADHDという特性も妻のHSPもマイノリティの一種だろう。

名前が付いているかいないかに関わらず、
人はみなマイノリティ部分を持っていると思う。


日本という同質性の高い社会では、マイノリティ部分が生きづらさに直結しやすい。

多様性が受け入れられ、認められる社会は、生きやすさにも繋がる。すばらしいことだ。

しかしここで違和感が起きる。


多様性を受け入れるということは、
「多様性を受け入れない」ことも受け入れる必要が出てくる。

多様性を受け入れるべきだ!
と強弁した時点で、多様ではなくなる。

日本の同質性と多様性の相性の悪さがここだ。

多様性を受け入れる社会が良いものとされた途端に、「多様性を受け入れるべき」という同質性が生まれる。

ぼくには受け入れられない価値観がある。
おそらく、全ての価値を受け入れられる人ばかりではないと思う。

ぼくは「常識主義」を受け入れられない。
「常識的に考えて〜」「社会人として」「大人として」「営業パーソンとして」という、べき論を押し付けられると非常に腹が立つ。

自分に向けられた言葉じゃなくても受け入れ難い。これは、子供の頃の経験で培われた思想なので変えられない。

ダイバーシティが、ぼくの「受け入れられなさ」を否定するなら、ぼくにとって多様性は受け入れられるものではなくなる。


「受け入れられなさ」は「仲良くできなさ」ではない。思想信条が違っても人は繋がれるはずだ。

気が合わないけど乾杯しよう。

そういう社会がぼくは好きです。


おしゃべり版もあるので、よかったら聴いてみてね。


これを読んでいるってことは、投稿を最後まで読んでくれたってことだね。嬉しい!大好き!