【問い】過去→現在→未来、意識はどっちに向いてる
どもーしゃびです。
おととい電車の大幅遅延でバタバタしたんですが、少しその話をさせてください。
その電車の遅延って、前日の大風(おおかぜ)の影響だったんですよね。大風の影響で線路に工事現場の足場が倒れたので、電車がストップしたんです。
ニュースにもなってたらしいんですが、ぼくは情報を全くチェックしておらず、まんまと遅れて出勤しました。
ゆうゆうと遅刻をしてきたぼくに同僚が一言。
「前日に大風があったんだから、電車大丈夫かな…とか心配にならなかったの?」
たしかにおっしゃる通り…
でも、全然ならなかった。
大風だなぁ、くらいにしか思ってなかった。
言われた時思ったんです。
ぼくは現実に起こっていることに対して本当に無頓着なんだなって。
基本いつも上の空。
現実に集中してない。
もう少ししたら桜の季節だけど、
「この綺麗な桜をあと何回見られるだろう」
なんて殊勝ことは思わず、
「桜だなぁ」くらい。
これも上の空だからだと思う。
ところで最近、twitterを眺めていると、
「今日の積み上げ」ツイートをしている人をよく見かける。
例えば、
・noteひと記事投稿
・音声配信収録
・kindle本日執筆
みたいな感じ。
ひと昔前まではこの手の投稿って少なくて、
「出来事」に関する投稿が多かった。
mixiのブログは日記だったし、Facebookやインスタの投稿も「充実した直近の出来事」を競って投稿していた。
この違いは何なのだろう?
積み上がっている過去が大事か。
積み上げていく未来が大事か。
いわゆる「リア充投稿」と言われる投稿は、自分が積み上がっている人間関係を記すものなのだと思う。
バブルの時代に、高い車やブランド物のバッグが積み上げた栄光の証拠として必要だったのと本質的には一緒なのだと思う。
でも「今日の積み上げ」ツイートは、意識が未来に向いていて、未来の輝きの証拠としての投稿のように感じる。
未来が確定的だった時代は過去の証拠が必要だったけど、不確定な時代においては未来の証拠が必要なのではないか。
ふと思う。
人は現在を感じにくいのではないか。
ぼくが大風を感じられないように、
現在を立たせるには、過去か未来の証拠が必要。
ぼくはこの記事をファミレスで書いているんですが、隣の席は女子高生の集団が談笑しながらご飯を食べている。
とても美味しそうに食べてるなって思う。
一方、ぼくは食べ終わった昼食の味をもはや覚えてない。
楽しそうな学生
幸せそうな家族
楽しそうに遊ぶ子供たち
おそらく当人は「自分楽しく遊んでいるなぁ」とは思ってない。要するに、「楽しそうだ」と現在を切り取っているのは、自分じゃなくて他人なのかもしれない。
だとしたら、各々がちゃんと自分の「現在」を切り取ることができれば、とても幸せな現在の世界が出来上がるってこと。
だって、楽しいは楽しそうになって伝搬するのだから。楽しいと楽しそうが循環した現在が続のであれば、それは立派な未来の証拠だ。
今年はちゃんと花見をしよう。
おしゃべり版もあります。
良かったら聴いてみてね。
これを読んでいるってことは、投稿を最後まで読んでくれたってことだね。嬉しい!大好き!