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絶対的なものと相対的なもの

自分のことが嫌になることってありません?


ぼくはよく嫌になります。

嫌になることがあるという人は、
どういう時に自分のことを嫌だと感じますか?



ぼくは相対性に囚われている時に、自分のことが嫌になります。


絶対評価と相対評価って言葉がある。

例えば、小学生の通信簿は絶対評価だから、全員がよくできたなら全員の評価が「よくできました」。大学の評価基準なんかも同じで、もし全員できてなかったら全員に「不可」がつく。

一方で、多くの公立中学などで採用されてる評価は相対評価。全体の中でどのくらいよくできていたかで評価が決まる。だから、テストの結果が同じ50点でも、他のみんなが100点だったら評価は1だし、みんなが0点なら5だ。



社会は相対性であふれてる。


ボーナス査定のいい人、わるい人。
昇進する人、しない人。
売れる商品、売れない商品。

多くの物事にはパイがある。
限られたパイをとらないと、評価が得られない。

流行りそうなプラットフォームができると、みんなが先行者利益をとりたがるのは、先行者のパイが有限だからだ。


自分が先んじてやろう。
プロフィールにこれみよがしに書かれた「kindle〜部門1位」
あいつはズルして得をしてるんだ。
金を儲けたいだけなんだ。


人の立ち振る舞いを訝しんだり、自分のさもしい感情に落胆したり。

人と比べて自分はどうだと考えていると、自分のことがいやになってくる。
相対的に自分がどうかと考えすぎていると、割を食うたびに腹が立つし、努力が足りない自分を呪う。


一方で世の中には絶対的なものもある。



みんなでご飯を楽しんでいる時間。
あなたが楽しければ私は楽しくないなんてことはない。むしろ、あなたが楽しいほうが自分も楽しい。

みんなでものづくりをしている時間。
出来上がりがよくなればよくなる程、みんなの満足度があがる。



絶対的な場所にいるとき、ぼくはぼくを嫌にならないでいられる。


お金が絡むと、相対性に囚われやすくなる。
稼いでる人、稼いでない人。

お金って何だろう。


「代わりにやること」なのだと思う。

飲食店で働いてる人は、みんなの代わりにご飯を作ったりとどけたりしてる。
先生はみんなの代わりに知って伝えている。
洋服の工場はみんなの代わりにまとめて着る物を作っている。

「代わりにやること」の評価軸を一定にしたものがお金だ。

代わりにやるためのパイを奪い合う必要はなく、やってくれるならやってもらえばいい。

お金を経由しようがしまいが、自分が何かしら代わりにやれているのなら、誰かが代わりにやってくれるのだと思う。


悠長な考えかもしれない。


でも、みんなで楽しんでいる時間、代わりに何かを提供できていると実感できる時間。

絶対的な時間を長く生きていた方が、きっと豊かなのだと思うんです。


おしゃべり版もあります。
良かったら聴いてみてね。


これを読んでいるってことは、投稿を最後まで読んでくれたってことだね。嬉しい!大好き!