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「悲しい」から逃げるのはやめようと思う

ぼくにとって「悲しい」は引きの強いワードだ。
喜怒哀楽いろんな感情表現があるけど、これほど影響を与えてくる言葉はない。

でも、当のぼくは「悲しい」と思ったことがあまりなかった。

こないだ同僚に「あなたのとった行動が悲しい」と言われた。いい大人が仕事中に「悲しい」と言ったことに驚くと同時に、心がそわそわした。

怒っている人は大抵、間違っていることを指摘する。だから怒られたら、自分の行為が間違っているのかどうかを検証すればいい。あくまで問題は「行為」なので胸を痛めることもない。

ところが「悲しい」と言われると、話は別だ。
正しいか間違っているかを抜きにして、相手を傷つけてしまった事実は動かない。

行為に間違えがなかったとしても、悲しませてごめんと思う。


なぜ、ぼくは悲しく思わないのだろう。


出来事を深く考え直してみたときに「悲しい」にたどり着くことがある。

たどり着いた「悲しい」は出来事そのものではなく、「関係性」に紐づいている。

ぼくが悲しく思わないのは、悲しい現実が「不都合だから」だと思う。不都合を受け入れられないので、悲しく思わないようにしているのだ。

同僚の「悲しい」は誤解だった。
でも悲しいと言ってくれないと、分からない誤解でもあった。

「不都合な現実」は「不都合かもしれない現実」だった。

「悲しい」から逃げるのをやめたい。
「かもしれない」かもしれないから。


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本編のおしゃべり版もあります。
良かったら覗いてみてください。


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