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who is 弱者

 友人とたらふくカレーを食べてのち、ストⅡで強者ベガにボコられながら、ふと考えた。一体「弱者」とは誰なのか。

 いささか暴論であるが、「弱者」という自覚を得た人は、その瞬間から「元弱者」となるのではないか。他者に対し、ある属性によって関係上位を取れるポジション取り――これこそが「弱者」の現代的な意味にほかならない。

 すなわち、人は「弱者」の自覚を得た瞬間、強者となることはないのか。ある社会関係においては、権利を獲得すべき、勝利を約束された者は、本当に弱者なのだろうか。無論、誰もが「闘争者」として始まるのだろう。しかし、戦う者は本当に弱者といえるのだろうか。

 弱者の権利獲得の運動は大いに結構。とはいえ、弱者はいつまで「弱者」なのか、問題は残る。端的にいえば、「弱者」とは人権を制限された人々――たとえば、障害者や皇族である。人権の制限は、そのまま存在の神秘化をもたらす。しかし、神秘化は、主体化の制限を伴わなくては機能しない。スっ飛ばしていえば、「弱者」の自覚は、神秘化を捨てる決意である。結果、拳で戦うことになる。運動が始まるのだ。

 もちろん根本的な問題として「弱者」の定義は、かなり難しい。友人いわく「ほとんどの人が弱者じゃないのかな」、然り。そうである。ならば、強者とは誰か。金持ちなのか。人類の9割9分9厘が「弱者」ならば、金持ちを焼けば問題は片付くのか。否。

 弱者とは何であり、誰の、どの状態のことなのか。たとえば女子高生は弱者なのか。強者なのか。そう考えるだけでも定義の困難さがわかる。それを決める根源的なものは何なのか。

 中間共同体を失った現在、包摂されたかった人々が「弱者」となった。同時に、包摂を疎ましく思っていた人々は、ステータスは弱者と変わらないにせよ、安堵した。

 ここまで社会的建て前としての「個」が浸透した以上、弱者が包摂されるためには、その実感を得るためには、稼いで支払うしかない。これこそが資本主義である。そして、ここに資本主義のデッドエンドがある。弱者の死体が転がっている。

 話が逸れた。弱者とは誰か。格闘ゲームをしながら思う。パラメータの配分とキャラ設定と関係性、その操作性。一体、ぼくらは誰に何のために戦わされているのだろう。答えは出ない。またベガに負けた。そして、ケンが倒れて転がっている。

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