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共存には必ず排他がある。

こんばんは「WTF ブログ」です。

どんな生き方が理想でしょうか
私は私自身の主張に困惑しています。

私は社会的にどう見られるのかを
とても気にする生き物だと分かりました。
それは、自己分析の中で
価値を置くものに「社会的地位•認知」を
私が置いたからです。

それに私は正しいことがきっと好きです。
人の気持ちや状況を考えずに
「真実だから」と言葉にしてしまうことが
多々あります。

だから自分にもとても厳しいのです。
複雑な感情の中で一途な気持ちを持ってても
「でもそこまで努力してないじゃん」
「社会的にもっと努力してる人が挙がるよ」と
比べっこをしてしまいます。

自分のテリトリーを持つことや、
自分に自信を持つことにも懐疑的です。
なぜなら、自惚れている人の大半は
井の中の蛙で「そうでもなかった」から。

田舎の1番上に立っていても、
場所が都会となれば、それは地元ネタ。
それに気づいた時、私の瞳は冷たくなりました。

私はどこへも歩めないかも知れません。
正しさを判断材料にして考えて、悩んでも
それは正しさの渦中だから正しいんです。

悪い解釈をしてしまえば、苦しいことも
正しくなりうるのです。

楽観的に大雑把に生きたとしても
捨てられなかったものを捨てることを選び、
溢した後には軸もない欲望の世界で
失ったものを嘆く生活になるのかも。

きっとどんな主張をしても、排他的になります。
誰かを寄せ付ければ、誰かを捨てる事に。
よくある主張「何かを得るには何かを捨てる」
これも私の好きな正しい真実なのでは?

万人に好かれる人は排他的な部分を丸くして
人を受け入れることに長けているのでしょうか?例えそうだったとしたら、世間ではそれを
なぜ不届者となぜ呼ばないのでしょうか?

だって誰にも合わせられて
本当は思ってもないかもしれないクズでしょ?
心にもない事、してるかもしれないのに。



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