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花に心臓

   「おはよ。」

その声とドアが開く音を聞いて、白い壁に囲まれた、春の風が揺らす木漏れ日が映える窓から瞳を移した。植物図鑑が整頓された棚の横のパイプ椅子に彼は腰掛けた。日々変わらない景色に彼は、僕が飽きてしまうほど華を齎してくれる。今日も片手に花束があった。今日は橙色のガーベラだった。

  「今日も来たの?昨日も花を持ってた。」
  「何回来たっていいだろ。」

いつか僕に渡してくれた花も廃れてしまうとは忘れて、花瓶の花の寿命を足した。ほんの少し、僕がほんの少しだけでも未来を夢見られるように。

   不明確だった視界がだんだんとはっきりして見えたのは、彼の鎖骨の間に素朴に輝く雫モチーフのネックレスだった。毎日眺めることは出来ないが、僕の首にもそれはあった。
 
「ネックレスよく見せて。」
「なんでだ…」 「僕のと同じじゃん。」
「…よく覚えてるな、お前。」
 
不貞腐れたように彼は言った。その顔はどうも照れ隠しのようにも見えて、少し可愛らしかった。もちろん僕はよく憶えている。当たり前だ。大切な人が贈ってくれたんだから。
 
「真似するなよ笑」
 
いづい口元に笑みを綻ばせて僕は言ったと思う。この時は言ったかどうかが、僕には思い出せない「思う」だけど、本当は彼が来てくれても、溢れた機械音や、呼吸の音でよく声が聞こえない。それが僕には辛かった。それでも、彼が居てくれるこの時間だけが僕のたった一瞬の幸せだった。それ以外、幸せと言うには僕には少し足りなくて、寂し過ぎた。


   彼は最近、ここへ来たら必ず植物図鑑を手に取る。僕みたいに。僕は君が、きっと心を込めて持ってきてくれた花の名前が分からないのが嫌だから、沢山図鑑を増やした。今は読むことも難しいけれど、何度も何度も見たから図鑑の中が写真のように大抵頭に入っていた。
 
「また僕の真似?」
「いいや、俺の趣味。読書が。」
「読書?それ図鑑だよ?」
「それでも字は読んでんだ。」
「覚えようとしても出来ないぞ。だから真似するなよ。」
「…俺がお前を真似してどうする。」
 
また不貞腐れた。でも僕らはお互い顔を見合わせ、それが可笑しくて笑い合った。何気無い君との時間に、僕は心を惹かれていたんだね。


   明くる日も明くる日も、彼が来る朝は続いた。まるで永遠かのように。夢かのように。けれどそれと同じ数だけ、何の光もない、真っ暗闇の夜も続いた。その時は花が分からなかった。上を向いて咲いているのかも、下に項垂れているのかも。たった一つの希望だった干天の慈雨からの水ももう温くなってしまって、また注いで貰えるまで、枯れかけの花と一緒に目を閉じて静かに息をするだけだった。けれどその日の暗闇は許さなかった。
   現実が見えてしまった。生花ではなくて、僕の心臓は造花そのものだということ。からりと乾いた瓣が散ってゆく虚しさに包まれた。最期に、目を閉じていた時に綺麗な夢を見ていたと思う。またあの大切な人からの贈り物だった。

僕は腕に繋がった人工の生命線を
僕の本物じゃない、歪んだ寿命から引き抜き、
同時に口元に流れてくる活きる気体を拒んだ。



   鉛の濃い灰色の雲が覆う空、今にも冷ややかな氷結晶が落ちてくるような日。ここに持ってきたのは、白色のガーベラとリンドウだった。血の涙が零れるほど、悔しくも花束も小さくなってしまっていた。訃報を聞いたのは朝4時、薄暗い早朝だった。


   俺にとってお前は永遠だったんだ。俺の中でお前は、いなくならないと思っていた。大切に飾った花に優しく潤う水をやるように、お前に華を渡せば寿命は消えないと思っていた。浅はかで馬鹿な俺は、お前が居なくなれば死んでしまおうと思っていた。絶対、絶対に、呪いにかかったみたいに、お前の後について逝こうとしていたんだ。けど、けど、濁って薄れてゆく記憶の中で、顔も、声も、手の温かさも、思い出せない形ないお前が、きっとあの頃みたいに、ささやかに笑っているんだろうが、こうそっと一言、俺の中のお前が呟くんだよ。



…「真似するなよ」って

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